掌編小説●【追いかけないで】




 早朝5時少し前。曇り空100パーセントに東寄りのゆるやかな風が吹いている。真夏なので橋の上にいても爽快というまでには至らないけれども、市街地に暮らす私たちにとっては、狂気じみた暑さと忙しさの前にそっとひと息つけるありがたい時間帯だ。


 ルーティンをはじめよう。とはいってもこれは夢の中の世界だ。現実にもここ数年続けている日課だけれども、夢の中でまで律儀にやらなければならないものでもない。もちろんやってどうにかなるものでもない。明日の夢の中の私は忘れているかもしれない。いま私は眠っている。


 だがまあ、せっかくここまできたのだから、いつものようにはじめてみよう。


 いま立っている〈山中橋〉から川沿いの遊歩道を下流に向かい、400メートルほど先の歩行者専用の〈なかよし橋〉を渡って対岸を引き返してくる。1周900メートル弱の散策。これを3周から、その日の気分によっては5周ほどすることもある。


 誰がどう計算したのか知らないけれども、デスクワークを1時間続けると寿命が22分縮まるなどとべらぼうな数字で脅されては、いまのうちに足腰によいことを少しでもやっておこうという気持ちにもなるというものだ。


 2つの橋を巡って5周すると約4500メートル、昔ふうにいえば1里と少しでござる。朝の散策として適当なのかはわからないが、他にまったく運動らしいことをしていないので、30代男子として現状は明らかに運動不足だ。そのおかげといおうか去年の冬には自分の咳で肋骨にヒビが入った。


 だが、身体だって使えば減る。と私は思う。むやみやたらに鍛えればいいというものではないはずだ。昨今のトレーニングブームは国民を痴呆化させる陰謀の一貫だぞ。バカにもならず長生きしたければゆっくりなにごとも鷹揚に暮らし、スポーツなど必要最小限に止めるべきなのだ。よく定年退職後に健康のためにノルディックウォーキングだの中にはジョギングだのをはじめたりする人がいるけれども、彼らよりも自分の咳で肋骨にヒビを入れた私のほうがよっぽど寿命は長いと信じている。


 あと、長寿のためには本当はあまり食べないほうがいいのではないかとも思う。不食すなわち不老不死とまではいかないにしても、食物を大量に摂取すると内臓が疲弊するのは事実だろう。内臓を守るためにも運動量を抑え、必要カロリー量を少なくしておくことは大切だ。うんこがたくさん出るだけの大食いなどはもってのほかだ。


 川の両岸は雑木林になっていて、左岸は住宅地へ、右岸はさらに深い森へと続き、やがて町の背後の山々に連なる。したがって野生のクマに出くわす可能性はある。ここの公園ではないけれど近隣の似たような河川敷公園では、今年も雪解けから羆の姿が何度も目撃されている。


 クマは羆(ヒグマ)だから本州にいるツキノワグマよりひと回りもふた回りも大きい。一昨年だったかここから20キロほど離れた住宅街に現れたヒグマが運悪く通勤途中に通り合わせた中年男性を追いかけ、背後から襲ったニュース映像を見たことがある。


 ちょっとあんた、とでもいうように立ち上がって後ろから肩に手を掛けたと思った瞬間、その中年男性はまるでロデオマシンに乗って跳ね上げられたかのように軽々と宙を舞った。いやクマが振り回したのは背広の上着だけのようにさえ見えた。


 幸いにして被害者はそのあと数回噛まれて放り出され致命傷は受けずに終わったけれども、それでも肋骨が6本折れ、噛み跡を上半身にいくつも残して、全治7ヵ月だったという。自分の咳で肋骨にヒビが入ってしまう私なら確実にあの世いきだ。


 このときのクマは5歳のオスで身長約160センチ、体重160キロだった。同じような個体が山から川筋を伝ってこの公園まで降りてきてもまったく不思議はない。川筋はクマの移動ルートなのだ。しかも事件の現場よりこちらのほうがずっと山に近い。まともに考えるほど明日は我が身の緊迫感で冷えびえする。


 そこで私は考えた。早朝のこととて人はまだまったくまばらだけれども、誰かを見つけてその後ろを歩くのだ。万一のときにはその人に犠牲になってもらい、そのあいだに私は逃げる。人の盾作戦。なんと姑息なやり方と非難されようと、ここでもし腹を空かせたヒグマに出くわしたら、もうこれしか助かる道はないだろう。


 そうこうしているうち、ほら生贄の人物が歩いてきた。まだ20代と思しき彼は、毎日決まってこの時間、私と同じ周回コースを歩く。挨拶すら交わしたことがないのでどういう事情なのかは知らないけれども、いつも暗い顔つきで私より早くから歩きはじめ、遅くまで歩き続けている。


 身長180センチくらい。上下ともに黒いジャージを着てスニーカーも黒。ウェーブのかかった前髪をヘアーバンドで上げている。肉付きはふつう。しかし後ろ姿を見ると、毎日の散歩のおかげかジャージが食い込んだ尻が丸く締まってプリプリしている。そのプリプリを少し遠目に眺めながら私も歩く。


 いまは取り壊されてずいぶん経つけれども、その昔、私が子どものころ、ある大学付属の植物園にこじんまりとした博物館があった。たしか入園料を払って植物園に入れば博物館のほうは無料で誰でも自由に閲覧できたと思う。


 その博物館の1階、入ってほとんどすぐのところにガラス張りのクマの恐ろしさコーナーみたいな展示があった。クマに襲われた住宅の現場写真とか、例によってクマの剥製とかが置かれている中、子どもの私の頭より少し上くらいの高さに広口の蓋つきガラス製保存瓶に入った〈駆除されたクマの胃の内容物〉があった。ひとつにはオトナの男の片腕、肘から先が下を向いて縦に入っている。少し濁った液体の中でふやけた象牙色をしていて、確か指が1本か2本欠けていた。


 もうひとつのガラス製保存瓶にも液体と一緒に象牙色の内容物と髪の毛らしいものが入っていた。最初、髪の毛以外になにが入っているのかは理解できなかったのだが、突然、ぐちゃぐちゃした内容物のなかに小さな子どもの足の裏がひとつあって、こちらに向かって張り付いていると判別できてしまい、激しく動転した。衝撃的な恐怖が襲ってきた。クマは怖い。海は溺れるしこれで山も怖くなった。私は野生には耐えられない。


 犠牲者の遺体をガラス製保存瓶に入れて展示するとは、いまなら到底考えられない無神経、乱暴で冒涜的な扱いだが、この他にも別件の遺骨を承諾のないままいつまでも標本扱いにしていたトラブルなどもあり、奇妙だけれども、これはこの大学の伝統のような気が私にはなんとなくしている。


 クマは本当に怖いのだ。映画『コカイン・ベア』だとか金太郎のお馬の稽古に付き合わされる足柄山のクマだとか、ゆるキャラのくまモンだとか、私にはまったくピンとこない。そんなものはまやかしだ。お馬の稽古の前にむしろクマに乗る稽古が必要だろうし。


 河畔公園に見える人影は生贄の青年を加えて4人。私を含め計5人。みんなバラバラに歩いたり体操したりしている。これから30分ほどのあいだに公園を訪れる人はどんどん増えていく。そうすると安心感は増すけれども早朝の爽やかな清澄は少なからず損なわれる。


 何気なく後ろを振り返ってみた。クマが立っている。ヒグマの剥製だ。大学付属の博物館で見たヒグマの剥製が、いま歩いてきた遊歩道を20メートルほど後ろで立っている。


 そんなバカな。こんなところにあるもののはずがない。あの博物館で見た剥製は、もう処分されてこの世には存在していないかもしれない。


 ……、生きている。動いている。


 ヒグマが左右を見る。朝日が後ろから当たって顔は逆光ですっかり影になっているけれども、なんとなく猛々しい雰囲気は感じられない。それはなによりだ。


 ……、生贄の青年よりも大きく見えるから足先から頭の先までゆうに2メートルはあるだろう。


 全身が総毛立つのがわかった。叫ぼうにも声にならない気がする。しかし野生のクマ対策としては、いたずらに大声を出してこちらに注意を向けられ興奮されても逆効果だとも考える。どっちつかずの気分に落ち着かない。


 大きなヒグマは前のめりになり、バランスを取ろうとする体重の移動を利用して、短い後肢でヨチヨチ追ってくる。しかし移動は意外に素速い。クマは2足歩行が上手いと聞いていたけれども、それをこんな命懸けの状態で実際に目の当たりにするとは。


 ……、北アメリカでは森の樹々のあいだを移動する姿がビッグフットやサスカッチに見間違えられて大騒ぎになることがあるという。そのほか、樹木の影からこちらをじっと覗いている幽霊にも。


 クマクマクマクマクマクマクマクマクマ。ゼネコンの熊谷組のマークは「マ」を9つ並べた円の中に「谷」だぞ。逃げなければ。


 こういうときはどうすればいいのだろう。……、わかっているってば。逃げるしかないのだ。そのほかにうまくかわす手段などない。なにも考えず逃げて逃げて逃げて先をゆく青年を追い越すのだ。追い越せば順番が変わる。後ろからヒグマ、青年、私の順だ。申し訳ないがプリプリヒップの青年にはやはり生贄になってもらおう。私はとりあえず、いや絶対に噛まれたくない。


 走りたくないけれども走る。こんなときに走りたくないと思うヤツなどいるのだろうか。私だけか。しかも、あいにく遊歩道は〈なかよし橋〉から〈山中橋〉に向かってわずかだけれども登り坂になっている。そのぶん負荷が増す。


 こんなに走っては身体をしてしまう。でもヒグマに食われるよりはもちろんましだ。韋駄天走りに走りに走る。青年を追い越して走る。走る。


 ……、おお、1周回ってヒグマの後ろ姿が見えてきた。ヒグマは青年を追っている。しかしここまで走ればずいぶん貯金ができただろう。ひと安心です。息が切れた。


 ……、おおっと。やめろ。ヒグマのヤツ、こっちを振り返った。なによ。なになに。今度は逆に移動してくるってのか。


 やめろ。いいから、いいから、あっちを向いて。こっちはいいから。こっちは放っておいて向こうへいって。向こうへ。こっちに向かってきたら今度は逆回りだ。逆回りに走らなくちゃならないでしょ。


 わかった。わかった。どうせ夢の中なんだからな。やっちゃうぞ、バカ野郎。キツイの1発お見舞いするぞ。闘うぞ。こっちは怖いもの知らずだぞ。


 おおっと、かかってくるのか。いいのか、いいのか。夢の中でヒグマに噛まれて死んでもいいのか。喰われて死んじゃうぞ。この野郎。いいのか。オレはヒグマに喰われて死んじゃうぞ。ほんとうにいいのか。


「うるさいってば」


 佳美の声がする。


「また寝ぼけてんのかあ」


 私を相手にしかしない話し方で様子を聞きにくる。


「ホントにぎやかなヤツだなあ、……」


 ごそごそと衣擦れの音がする。起き出したのらしい。


 夢の中で死んじゃうぞ。いいのか。


「まだ4時だよ」


 ようやくはっきり目が覚めた。


「あ、オレ、……、ああ、また寝言いってたのか。なんていってた」


「なんかいろいろだけど、このままじゃ眠ったまま死ぬぞ、いいのか、いいのか、っていってた。眠ったまま死んじゃうけどいいのか、いいのか、って。……、だけどさ、いいのかっていわれてもねえ、……」


 寝ぼけ顔の佳美がふてくされているような半笑いのような複雑な表情でいう。それにしても「眠ったまま死んじゃうぞ。いいのか」とは、なんと情けないのだろう。夢の中でさえ自分ではなにもできずまさかの他力本願とは、……。


 寝起き早々から疲れ果て、さらにひどい自己嫌悪にも陥った私は、この日のルーティンをあっさり放棄して再び眠ることにした。正直、眠りがイチバンだ。そして眠ったままあの世へいくのがいい。

                             (了)



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