れいわ怪異譚❼ 【記憶創出】


                    四百字詰原稿用紙約五枚程度

 新型コロナウイルスの流行以来、自宅にいる時間がめっきり減った。世間では外出ができない、社会的な場での付き合いができないなどがひどく苦痛なようにいわれているけれども、私はまったく平気だ。

 飲食店その他観光関連をはじめ集客が基本のお仕事をされている方々の苦境は十分にお察しする。けれども、たぶんそうした方々への忖度が働いての外出自粛という大問題ではなかったのかと私は思う。

 外出自粛など大騒ぎするほどのものではない。私は平気だ。私は特殊かもしれないが。どうだろう?

 まあこの問題はひとまず横に置いて、家にいる時間が増えると考えごとも増える。ずうっと放りっぱなしだった昔の記憶を改めて辿って拾い集めたりもする。

 自分の人生を撫で回して感興に耽る歳ではまだないはずなのに。

 で、いろいろと思い出しているうちに、ときどきこれは本当にあった出来事なのだろうか? と自分でも疑わしい記憶もでてくる。もしそれが現実に過去に起きていたなら、それは必ず現在になんらかのかたちで繋がり影響しているはずだ。

 しかし、どっちつかずで浮遊したままの謎もある。

 確か小学二年生の秋の夕方、美治郎という同級生の友達が、たいへん驚き慌てて私の家に駆け込んできたことがあった。

「秀ちゃん!! たいへんたいへん!! 笑いよる。笑いよるんじゃ!!」

「笑いよるって誰がじゃ?」

 サンダルをつっかけて玄関口に出ていくと、目を大きく見開いた美治郎は後ろを振り返って空を指さした。

「ほら、あいつよ」

 美治郎が指さす先には誰もいない、と思ったけれども、そのときにはそいつがあまりに巨大すぎて私の視界には咄嗟に捕らえられなかったのだ。

「あいつがきて笑いよるんじゃ!!」

 そいつは目を剥き出しにして空いっぱいに広がっていた。鼻から下は手前の私の家の屋根に隠れている。空いっぱいが顔なのだ。夕焼けの茜色に染まっている。

 偶然に雲の形がそのように見えているのではなかった。眼球が動いて地上を睨み渡している。

 私と美治郎は見上げながら家の斜め向かいの草むらに出た。

「世界の終わりかもしれん。とうとう世界の終わりがきたかもしれんぞ、秀ちゃん」

 母も父もまだ勤めから帰っていない。見える範囲に人影はなく、虫の声も途絶えている。カラスの姿もない。ただ、草むらの向こうの電線にしがみついて回転している子犬か猫のような奇妙な動物がいる。

 ワオキツネザルだ!!

 白黒の輪模様がついた長い尻尾で木の枝を渡っていくワオキツネザルは動物園で見たことがあった。それがどうしてこんなところにいるのか? きっと空の巨大な顔と関係があるのだろう。

 巨大な顔は、バロック式庭園であるイタリアのボマルツォ怪物庭園にある『地獄の口』という人工洞窟の正面によく似ている。ロックが好きな方には、不滅の金字塔『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットのイラストといったほうがわかりが早いだろう。

 目と鼻の穴と口が大きな、怯えたようにも見える顔のアップだ。それが空の端から端まで広がっている。

「神様……、あれは神様なんかもしれん」

 美治郎は呟くようにいってヨロヨロとあてもなく歩いている。

「よっちゃん、帰ろう」

 不吉な予感を感じた私は美治郎を引き止めようとした。なにより怖かった。

「よっちゃん、帰ってオレん家でテレビ見よう」

 しかし美治郎には聞こえないようで上を向いたまま、グルグルと同じところを歩き続る。電線のワオキツネザルの回転するスピードがぐんぐん上がる。

「あっ、あいつは神様の手下じゃろか」

 魅入られたかのような美治郎は高速回転するワオキツネザルを見つけて近づいていく。神様の仲間に対して手下といういいかたはどうかと思いながら、すぐそのあとを追った。

「捕まえてやる」

「待て!! よっちゃん危ないから待って!!」

 美治郎は私の忠告を無視して電柱を登りはじめた。妙に軽快な身のこなしだった。

「危ない!!」

 思わず叫んだのと同時に美治郎の体が電柱から離れた。

 運よく柔らかいところに落ちて怪我をしないように、と祈ることしかできなかった。

 そのとき空から低い、しかし耳を聾せんばかりの大きなうなり声が響いた。

 美治郎の体がフワリと宙に止まり、それから徐々に上昇しはじめる。

 両手両足を広げて大の字になった美治郎はゆっくり水平に回りながら高く高く登っていく。ワオキツネザルもなにかに取り憑かれたようにますます激しく回る。

 大の字の美治郎はクルクル回りながら『地獄の口』のほうに吸い上げられていく。

「よっちゃん!! よっちゃーん!!」

 叫びも虚しく、ついに美治郎は『地獄の口』の中に消えてしまった。

 怖くなり家に向かって走り出した私が立ち止まって振り仰いだとき、もうすでに空に巨大な顔はなく、いつもの夕暮れの茜雲がたなびいているだけだった。

 ワオキツネザルもどこへいったのか消えている。

 そのとき以来、再び美治郎を見ることはなかった。美治郎は騒ぎにもならずひっそりと消えてしまったのだ。

 しかし、美治郎という友達自体が本当に存在していたのかどうか、いまとなっては確信がもてない。美治郎という少年がいなくなったという事件の後日談のような記憶もない。

 あるいはあの日の草むらは私にとっても『地獄の口』で、私はいまでも別世界に入り込んでしまったままなのかもしれない。

 私は地獄から還れないままなのかもしれない。


                              (了)





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