れいわ怪異譚❶ 【海からの客】
(四百字詰原稿用紙七枚程度)
満代は夢の中で一人、小さな船に乗って沖に出た。目が見えないのに危険すぎると必死に止める周囲に隠れて未明の海にこっそり船出したのだ。
「目が見えなくても行く先は風と海の匂いでわかる」
いつか誰かから聞いたセリフが胸の中で何度もこだまする。
満代は船の中で仰向けに寝そべり、風の音を聞く。波に揺られて満ち足りた気分だ。
濃い霧が満代と満代の船を包む。それから満代の船は霧とともに遠くへ消えていく。
目が覚めるとすでに陽はとっぷりと暮れていて、満代は急いで店の前の通りに出た。浜のほうを見下ろすと、波打ち際に二、三十メートルおきくらいに焚き火が燃えて、暗い海に点々と合図を送っている。
海難事故で死者が出た場合に、その魂の仮の標べとなるよう古タイヤなどを夜通し燃やし続けるのだ。焚き火の前には座布団と飯碗が置かれ、その座布団が濡れると魂が帰ってきた証になる。そうして魂が帰るとほどなくして亡骸も上がる。
……まだ帰ってきていない。
アルヘイ棒のスイッチを入れて店に戻ると電気ライトを点け、ラジオを流し、ストーブの上の湯沸かしの湯量を確認する。これで開店作業はすべて終了だ。
アルヘイ棒というのは赤、青、白の三色の縞が捩じれて回転する理髪店のポールサインのことだ。満代の店のアルヘイ棒は玄関脇の外壁に直接取り付ける方式の、自立式の約三分の一ほどしかない小型だが、それでもくるくる回りはじめると少し活気付いたような気分になる。
バーバーチェアと鏡は一対だけで、あとはいましがた満代がうとうとしていた客の待合用のソファと木のテーブル、タオルやハサミ、カミソリ、シェービングカップなどの理容用具を仕舞っておくキャビネット。それらが嫁いできてもう半世紀近くも働き続けてきた満代の理髪店のほとんどすべてだ。
店自体も、いまはもう、月に数回程度、昔からの知り合いに頼まれて開けるだけになった。
壁の白ペンキはところどころ剥げ落ちて、木製の床はワックスが染みて黒っぽくなっている。
時計を見ると午後六時を回ったところだ。満代は再び客用のソファに腰掛けて客がくるのを待つ。
こんな夕方になってから店を開けるのは、海から帰ってきた魂が浜の焚き火の周りで待つ家族たちの元に戻る前に寄っていくかもしれないからだ。海の男たちはああ見えてけっこう見た目を気にする。誰に頼まれたことでもないが、満代は亡骸が上がるまで幾晩も夜を徹して待つ。
玄関ドアの呼び鈴が鳴ったのはその夜の十時になろうとする時刻だった。寝ぼけた目をしばたたかせて見上げると、そこにひょろりと背の高い、眼鏡をかけた青年が立っていた。山本さんのところの光輝だった。
光輝は父親と牧場をやりながら、ときどき祖父の昆布漁を手伝っていた。二人の乗った船はガメ島の裏で転覆し、祖父はもう二日前にクルマ岩まで流されていたところを発見されていた。
転覆の知らせを聞いたとき、光輝にしてみればなにもわざわざこんな時期にそんなところで事故に合わなくても、と満代は残念がった。もうすぐ今年の昆布漁も終るのだ。
でも人にはそれぞれ運命がある。こーちゃんはおじいちゃん子だったから、これでよかったとは決して思わないけれども、とほんの少しだけ吞み込めるものはあった。
山本光輝は入口の上がり框の前でまっすぐ前を向いて立っていた。ここしばらくは見かけなかったけれども、青白く端正な横顔に子供のときの面影はやっぱりある。
「こーちゃんだね。……久しぶりだね」
山本光輝はなにかたいいたげな目だけを動かして満代を見た。
「大きくなったね」
危うく涙声になりそうなのを必死にこらえた。光輝は全身ずぶ濡れで、黒色のカッパの袖や裾からひっきりなしに水が滴っていた。かすかに磯の匂いもする。
曲がったままの膝と歩くたびに痛む股関節をかばいながら満代は光輝の先に立つ。
「さあ、その椅子に座って。さあ、疲れてるべさ……。……ちょこっと見ないあいだにずいぶん男前になったね。……おばさんがもっと綺麗にしてやっから」
光輝がバーバーチェアに長身を畳み込む。その体からザーッという音を立てて大量の水が流れ落ちた。
光輝の前の鏡にはあらかじめ白い大きな布が掛けてある。本人が死んだ自分と対面しないように用意したのだった。
座ったままで全身を覆う散髪マントをかけるとき、光輝が水の溜まった足元をちょっと気にするしぐさを見せた。
「気にすんでない。おばさんの店はもう慣れてるから」
満代はこの五十年近くのあいだに十九人の死者たちを迎えていた。いま目の前にいる山本光輝でちょうど二十人目になる。
「そんなの残念なことだけどね」
散髪マントのスリットに手を突っ込んで、肘掛の上の光輝の両手首を引っ張り出す。カッパを着たままなので本当は散髪マントはいらないし、動かない手をマントから出す必要もない。しかしなにごともできるだけ生きていたときと同じにしてあげるのが大事なのだと満代は思っている。
日に焼けて赤黒く、冷たい光輝の手の甲には太く黒い血管が浮き出ている。満代はその手を両手で握りしめた。
バーバーチェアの背を倒して仰向けになった顔から眼鏡を外し、温かいタオルで拭き上げ、いい香りのするシャボンを頬から顎、鼻の下、顎の下に塗りつける。額の真ん中にも少し。
左手を添え、右手の人差し指をカミソリに見立てて泡をこそげ取っていく。昔、本物のカミソリであたったこともあるのだが、剃った端からまたすぐに生えてくるので、本当に剃るのはやめにした。それはお互いに大変だから。
光輝は気持ちよさそうに目を閉じている。
チェアの背を起こし、散髪マントを外し、短い髪の毛を指で梳いて施術は終わった。利発そうな額と綺麗な眉を見ながら眼鏡を慎重に戻す。
「お疲れさまでした」
話したいこと、別れの言葉はたくさんあったが、未練を促してはいけないので、満代はそれだけをいって両肩に手を置き、ぽんぽんと叩いた。光輝の肩は意外なほどに逞しかった。
山本光輝はゆっくり立ち上がり、一度だけ満代を振り返り、それから店の中をぐるりと見回して背中を見せ、出てゆく。ドアについた呼び鈴がチリンチリンと響いたときには、もう光輝の姿は消えていた。
店の外は季節外れの雪、しかも大きな牡丹雪がとめどなく舞い降りている。
店に戻り、静かなものいわぬ客の後片付けをする。そしていつものように、私も海で死にたい、と満代は思った。
もうずうっと昔、これを最後に陸(おか)に上がる予定で北洋へいった夫は海に転落して死んだ。亡骸は帰ってきていない。
もう少し。きっともう少しで夫が迎えにきてくれる。海の向こうから、あのドアを開けて、今度は夫が私を迎えにきてくれるのだ。
(了)
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