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ECMO㉓|問いかけ


あらゆる人たちに影響を与える息子。


そんな息子の姿を見つめながら、夫婦でも沢山話しかける。

「凰理、アイドルみたいだね~」
「みんな気にかけてくれてありがたいね」

そんな微笑ましいひとときを過ごしながらも15分を迎え、前日の面会が終了した。


そして、担当看護師がいつものように出口まで見送りに来てくれたが、

「明日に関する説明で、何かわからないことなどはございませんか?」

と、最終確認をされる。
これまで、帰り際にこのような質問をされたことはなかった。


(毎度毎度丁寧な方だなぁ)

と、その時は特に深くは考えはしなかった。


「そうですね、細かく説明して貰いましたし、質問にも答えていただいたので、今のところは特にないです」

と私は答える。


だが、看護師も一度は安堵の色を見せるも、すぐに引き締まった表情に戻り、再び私たちに問いかける。


「ECMOの離脱に関して、“再装着が出来ないことの意味” はご理解いただけていますか?」


ここで、ようやく質問の真意を理解した。


つまりは、

「『離脱失敗=死』をちゃんと認識しているか? 」

ということである。


厳密なルールがあるかはわからないが、少なくとも医療チームは「死」「お看取り」という言葉を基本は使わない。

これまでも一貫して私たち夫婦に配慮し、慎重に言葉を選びながら説明してくれていた。

だが、それは見方を変えれば、本当に伝えるべきところが伝わらない可能性も生んでしまう。
(その匙加減は本当に難しいと私自身も思う)


ましてや今回の息子の場合は、“生死が分かれる局面” 

そういったことも懸念し、看護師の配慮で最終確認をしてくれたのだと思う。


だが、看護師もかなり慎重に言葉を選んでいるように映る。

実際、“明日、生死が分かれる子の親” という立場の人間に、どう伝えるか迷っていたかもしれない。


(気遣わせちゃったな…)

と内心申し訳なく思いながらも、


「ありがとうございます」
「大丈夫です、ちゃんと理解してます^^」

と看護師に伝えた。

私たちは「死」があることはちゃんと認識していたし、その世界線が存在することも受け入れた上で、息子を信じていた。


しかしながら、この質問をされたことで、

(念押して言うってことは、やっぱり…)

という思考になったのもまた事実。


私も、ここ数日の精神状態から、あらゆる感覚が研ぎ澄まされており、“人の感情”“場の空気感” を、嫌でも感じ取れるようになっていた。

そして、これまでの説明や現場の醸し出す空気からしても、医療チームとしては “離脱は難しい” という見解であることは、何となく理解が出来た。


だがそれでも、もう私は消えない炎を宿したある種の “覚醒状態” であり、

「それでも、乗り超える」

と、強く信じ切ることが出来ていた。


なぜここまで、信念を持てたのかは、私の性格やこれまで歩んできた人生からすると不思議でしょうがない。

親となった「責任」なのか
我が子に対する「愛」なのか
息子の「影響力」なのか…

窮地に追い込まれても尚、強い意志を持って構えられていたこの精神状態は、もはやこの先、“踏み入れることのないであろう領域の感覚” なのかもしれない。


つづく


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