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立正安国論⑨【お祖師さまのおしえ】vol.18

【お祖師さまのおしえ】は、私がお祖師そしさま(日蓮聖人)の御遺文ごいぶんを少しずつ読んでいく過程を報告するコーナーです。

今回は「立正安国論りっしょうあんこくろん⑨」です。(①~⑧はこちら

参照しているのは、『昭和底本 日蓮聖人遺文』(日蓮教学研究所、改訂増補第三刷、2000年)と、『日蓮聖人全集 第一巻 宗義1』(春秋社、1992年)です。

さて、前回は、人民は仏法を信奉し、為政者も悪政を行っているわけではないのに、災難ばかりが続くのは、一体どのような誤りによるのでしょうか、という質問が、旅客りょかく(旅人)から主人(日蓮聖人)に投げかけられました。

今回から、主人(日蓮聖人)の返答が始まります。

以下、「原文」「現代語訳」「注」の順に書き、最後に私の感想を書いていきます。現代語訳は私が作ったものになりますので、拙いですが、あたたかい目で見ていただければ幸いです。

それでは、さっそく読んでいきましょう。


主人しゅじんいわく、ひとうれえて胸臆くおく憤悱ふんぴす。

【現代語訳】
主人が答えて言った。「私もひとりこのことを嘆き悲しみ、心のなかではいきどおりつつも、言葉にして人に話す機会を得られず、苦しい思いをしていました。

※胸臆・・・心のなか。胸のうち。
※憤悱・・・「悱」は「言いもだえる」「うまく言葉にできず苦しむ」の意。『論語』に、「憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず」とある。


きゃくきたりてともなげく、しばしば談話だんわいたさん。

【現代語訳】
そうしていたところに、あなたのような旅人が訪ねてきて、私と同じ嘆きを吐露してくれました。しばらく語り合おうではありませんか。


出家しゅっけしてみちるは、ほうよっほとけするなり。

【現代語訳】
そもそも出家して仏の道に入るということは、仏法を学び、最終的に仏となることを目標とするということであります。


しかるにいま神術しんじゅつかなわず、仏威ぶついしるしなし。

【現代語訳】
しかしながら、現在、神に祈りを捧げても願いはかなわず、仏の威力いりきもあらわれないという状況です。

※神術・・・人知を超えた不思議な力を呼び起こす術。祈祷やまじない。
※仏威・・・仏の威力いりき(他を圧倒するような強い力)。


つぶさ当世とうせいているに、おろかにして後生ごしょううたがいをおこす。

【現代語訳】
このように、祈りも信仰も報われない、いまの世の中のありさまをよくよく観察しておりますと、まったく愚かなことではありますが、果たしてこのまま仏法を信奉して未来の成仏などありえるのだろうかと、疑いの心も起こってくるというものです。

※後生・・・生まれ変わったあとの世。未来世みらいせ


しかればすなわち、円覆えんぶあおぎてうらみをみ、方載ほうさいしておもんぱかりふかくす。

【現代語訳】
そういうわけで私は、天を仰いでは神仏に対するうらみごとをのみこみ、地にふしてはあれこれ思い悩み、憂いを深くしていたのです。

※円覆・・・天のこと。
※方載・・・大地のこと。

★「円覆」について
この語の意味は辞書を引いてもネット検索をしても出てこない。しかし、『立正安国論』の現代語訳が載っている本やサイトを確認すると「天」と訳されている。中国のオンライン百科事典「百度百科」の「方載」のページに、後漢時代の書物『明堂月令論』からの引用があり、そこには「圜盖方載、六九之道也」とある。ここに出てくる「圜盖」とは、「円蓋えんがい」のことであり、「天」を意味する。大地にかぶせられた半球状のふた、これがつまり「天」ということなのだろう。「円覆えんぶ」の「覆」という字は「おおい」とも読むので、「ふた」と「おおい」で意味が通じる。したがって「円覆」は「円蓋」と同じ意味で使われていた言葉だったのだろうと推測するに至った。


主人しゅじんいわく、ひとうれえて胸臆くおく憤悱ふんぴす。
 
主人が答えて言った。「私もひとりこのことを嘆き悲しみ、心のなかではいきどおりつつも、言葉にして人に話す機会を得られず、苦しい思いをしていました。
 
 
きゃくきたりてともなげく、しばしば談話だんわいたさん。
 
そうしていたところに、あなたのような旅人が訪ねてきて、私と同じ嘆きを吐露してくれました。しばらく語り合おうではありませんか。 

まず最初に、主人は、自分も旅人と同じことを考えていたが話せる相手がいなかった、と言っていますね。そして、同じ嘆きを持つ者同士、語り合おうと言っています。
 
主人は「旅人と自分は同じ嘆きを共に抱いている者だ」という認識をもって、話し始めていたんだということを、私はここではじめて知りました。
 
この部分を読むまでは、『立正安国論』の問答は「主人が旅人の疑問に答えてあげる」という関係性で話が進んでいくというイメージを持っていたので、意外でしたね。
  
改めて、「noteをやっていてよかったな」と実感しました。noteで報告もせず、ひとりでさらっと読んでいたら、見落としていたと思います。

出家しゅっけしてみちるは、ほうよっほとけするなり。
 
そもそも出家して仏の道に入るということは、仏法を学び、最終的に仏となることを目標とするということであります。
 
 
しかるにいま神術しんじゅつかなわず、仏威ぶついしるしなし。
 
しかしながら、現在、神に祈りを捧げても願いはかなわず、仏の威力いりきもあらわれないという状況です。
 
 
つぶさ当世とうせいているに、おろかにして後生ごしょううたがいをおこす。
 
このように、祈りも信仰も報われない、いまの世の中のありさまをよくよく観察しておりますと、まったく愚かなことではありますが、果たしてこのまま仏法を信奉して未来の成仏などありえるのだろうかと、疑いの心も起こってくるというものです。

ここには、出家者(僧侶)としての主人の気持ちが書かれています。仏法を学び、いつかは自分も成仏することを目指して仏道に入ったというのに、祈りも信仰も報われない世のなかのありさまを目の当たりにして、このまま仏法を信奉していて成仏などかなうのだろうか…という疑いの心が出てきてしまう、と語っていますね。

これまでさんざん、旅人によって世のなかの惨状が語られてきていますから、そう思ってしまっても無理はない状況かもしれない…と感じました。

しかればすなわち、円覆えんぶあおぎてうらみをみ、方載ほうさいしておもんぱかりふかくす。
 
そういうわけで私は、天を仰いでは神仏に対するうらみごとをのみこみ、地にふしてはあれこれ思い悩み、憂いを深くしていたのです。

自分と同じ嘆きを抱いている旅人のような人がたずねてくるまで、主人はひとり、こんな風に過ごしていたんですね。
 
ここに出てくる「円覆えんぶ」という言葉が、なぜ「天」という意味になるのかわからなくて、本当に苦労しました…
 
私の調べが甘くて、実際にはどこかに解説があるのかもしれませんが、残念ながらいまのところ見つけられていないので、自分で調べた結果を注の下のところに書いておきました。

◇◇◇

今回の記事は以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 
次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。
 
それでは、また。



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