時間枠からはみ出すことの罪悪感は、どこからくるのか?
いつしか、時間通りに動くことが体に染み付くようになった。
小さい頃は、学校という仕掛けを通して、大きくなってからは職場というものを通して。
そして、うまく時間を守れない時がある。わたしはその時、罪悪感を覚える。
わたしは、平日昼間に外をブラブラしていると、罪悪感を覚える。
まるで本来すべきことをしていないかのように。
しかし、"固定的な時間帯を他人と揃えられないこと" は、罪悪感を覚えるべきことなのだろうか。
そもそも罪悪感とは何か?それは、自分が存在していてはいけないという恐れの感覚である。
時代は変わりルールは変わった。社会に持続的に貢献することと、決まった時間を勤勉に働き通すことの相関度は下がっている。個人の存在意義・存在価値が、社会に貢献するかどうかで測られる点はどうしても変わらないが、しかしその手段として、固定的な時間帯・場所を他者と揃えることはもはや必要ではない。
たしかに、一定の生活リズムで過ごすことは、心身の健康に寄与する。一般的には、健康なほうが本人はしあわせを感じやすい。また継続的な社会的貢献もできる。つまり、個人も社会もともにハッピーである。
しかし、必要以上に時間・場所を揃えようとすると、個々人のブレが「余剰」となって発生し、活用されなければ「ムダ」となってしまう。「ムダ」にコストを支払う社会も、我慢と罪悪感にストレスを覚える個人も、アンハッピーである。
縛っているのは過去の仕組み。そしてその仕組みに慣れている個人の意識。仕組みを変えて、個人の行動を変え、意識を変えていくというループを繰り返すうちに変わっていくものと、わたしは考える。
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