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「実験」という発想がもはや自分を見失っている証拠だった

この年になっても心のこもった忠告をもらえるというのはありがたいことで、つい昨日そんな機会がありました。

中身についてはもう少し咀嚼してから書きたいので今は触れないけど、その時一つ、気づいたこと。

もともと私は、人に言われたら、特にこの人はすごいと思っているような人に何か言われたら、全部そうなんだと信じ込んでしまうような人間だった。

そんな折、何人かから「あなたは信じすぎ」と言われ、それ以来、人からアドバイスを受けたときは警戒するようになった。(←やっぱり言われたことを信じている)

でも完全に受け入れないと今度は「頑固」「人の話を聞いていない」と言われそう。その後、そうかもと思ったときは、「実験する」ようにしよう、と思うようになった。

あの人が言っていたことは本当だろうか、いったん試してみて、その通りと感じるかどうか。

私は、人が言ったことをただ信じているわけじゃないよ、だって実験しているから、実験して確かにと感じたことだけ取り入れてるよ、と。

だから、昨日も話を聞きながら、「この人が言ったことが正しいのか、実験してみよう」と考えようとして、あれ?と自分に疑問符が付いた。

そもそも、何かをするときにこれが正しいという答えなんてない

「こういうときはこうしたらいい」っていう答えがあれば楽でいいなあと、つい考えてしまうけど、外側から、セオリーから与えられる「答えらしきもの」に頼ろうとしている時点で、「自分基準」じゃなくなっている。

知識が自分らしく生きることを邪魔しているなんて言うけど、まさに実験によって、さらに、自分らしさを失うような「知識」を積み上げようとしていたなんて。

そうだとしたら、どうしたらいい?

ただ、その時々で答えを感じたいなら、むしろ、知識にしない方がいい。
言われたことを覚えない方がいいし、「実験」もいらない。

そういえば自分をしっかり持っている人ほど、メモを取らないような気がする。自分から湧き上がる感覚を信じるなら知識をとどめておく必要がないからだったんだなーと思った。

「実験してた」なんて書いた翌日に、こんなことに気づくなんて、面白いもんだね。

それでは、ホニャラ~

1・19追記
しかしさらに考えると、「自分を見失っている人」にとっては、実験は有効かもしれない。なぜなら、自分が何をしたいかがわからないのだから。実験して、自分を見つけていけば、実験がいらなくなってくる、というのがより私の言いたいことに近い。

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