ごめんな友よ!俺はもう行くよっ〜最終章:最後のシゴト編〜@渋谷の中二病おじさん#4
さて、気づけば30も半ば。
人生も早い人だともう折り返していてもおかしくないだろう。
ぼくの周りも例に違わず、やれ「どこどこのタワマンを買おうか」だの、「地方に移住して、家を建てる」だの「2人目の子供が生まれました」だの、その年齢相応の報告や相談内容を耳にすることが多くなった。
かつて、六本木〜渋谷〜下北沢のスズナリまで。安居酒屋で、朝まで飲み明かし、ものづくりに関する激論を繰り広げていたおじさんはというと…
なにもやる気が起きない日が続いていた。
人生がやばい。無気力・無体力の病(やまい)編
いつからだろう、こうなってしまったのは。
27歳くらいの頃、新作タイトルの開発プロジェクトに明け暮れ、徹夜を繰り返していた時期。
1年弱ほど続けたあたりから、夕刻に異常なだるさに見舞われる問題がおきはじめた。慢性疲労症候群。そんな言葉をインターネットで見かけて、調べていた。
しかし、それは激務からであって整体に行き、転職をして、長時間労働から開放されると自ずと去っていった。(転職をしていた。)
例の流行病が来て以降だーー。
2021年・夏。会社からの案内で、無料のワクチン接種が受けられると見て、(ほぼ強制的に)合同接種会場へと赴き、2回ほど接種を受けた。
その年の秋ーー。信じられないほど口唇ヘルペスがでた。2週間に1回ほどのペースで、その冬を超えるまで出続けた。
ある時から、夜眠れなくなった。寝るのはもともと遅い方だったが、寝て数時間で目が覚めてしまうのだ。その頃のiphoneのログを見ると、平均睡眠4時間程度の期間が半年ほど続いていた。まだ飲みにも行っていて、体は元気だった。
気づけば僕は昇進していた。
なんだか、ストレス値が上がるとともに、睡眠はますます浅く。徐々に疲れが酷くなってくるようになっていた。眠り始めた途端、爆発音が聞こえ飛び起きたことも何度かあった。音がなっていたのは僕の頭の中"だけ"だった。
ある種の病なんじゃないだろうかと感じていた。お酒を飲んでもすぐに限界を迎え、整体の頻度を上げても体の痛みは取れず。
かつて、平日に朝まで語り明かし、またシゴトを一生懸命する。といったサイクルを生業としていたにもかかわらず、とっくにそんな、気力も根性も途絶えてしまっていた。
そして、コロナ感染。後遺症までへと発展し、現在の生活(くらし)へーー。
シゴトをして、それ以外何もできず。寝るだけの日々が続いた。
正しくは、飲みにも行けたし、寝ているだけではなかったのだが、圧倒的に休んでいる時間を長く取らないといけない時間が続いていた。
〜そして最終章へ〜
こんな見出しをつけると、こいついよいよやばいんじゃないか?
と思われそうだが、至ってまともだ。
今は、最後のシゴトをしている。
2020年からのコロナ禍と、それに伴うワクチン接種。そして後遺症らしきものとの戦いーー。年齢が年齢で、もう限界なのか?とも思いつつ、ただの気持ちの問題だと揶揄され、世間から白い目で見られるような気持ちになりつつも治療を続け回復が見えてきたいまーー
自身の中で一つの時代が終わった。そしてそれを終わらせるための、仕事をしている。決して大好きだった推しが復活とともに、卒業を遂げたから。とかではない。
僕の中での価値観の変化に、少し触れたいと思う。
形作られたものだけが唯一の真実
さて、冒頭の本題にようやくここで回帰したいのだが、
「自身の人生の時間」というものを、ここに来てようやく真剣に考え始めた。
僕は生まれてからずっと、いつか僕は、"この世界の真実"にたどり着く。みたいな中2のような思いを、大真面目に何処かに抱えて生きてきた。そこにたどり着くために、牛歩ながらにも歩みを進めてきた、つもりだった。
しかし、この歳になって思うのは、皆、真実などわからぬまま、その時の判断や情動で動いた結果が、人生になり、子供が生まれ、家をもち、車を買い、家族と出かけ、孫が生まれ、老後を迎え、病に倒れ、入院して、そして看取られーー結果的にそうやって、一般的に描かれる人生のようなものが、気づけば形作られていってるだけなんじゃないだろうか、ということだ。だけど、それは紛れもない生きた証であり、人にとっても妙な説得力を持ち始める。
僕が真実に辿り着こうとしている間に、皆人生を形作り。形作ったそれは、唯一の"真実"となっていたのだった。(まるで、ランダムウォークを続けるだけの相場をあとから見たときに、分析や解釈が生まれるのと同様にーー。)
僕はどこに向かっていたのだろう?
見えていた、北極星のような、暗闇に輝く真実という目的地が途端に見えなくなってしまった。
そんなときに、ふと思い返すと、思い出されるのは、"全ては北極星に向かうためだと、問題や負債や人のいざこざも受け止め解決してきた、多くの犠牲的な時間"だった。
北極星が見えなくなってしまった、いま。そして、目指すべきそんな星がないと知った、いま。
自身の人生を充実させるために、もっと時間を使うべきなんじゃないだろうか、ということを思い始めたのでした。(こんなものは早々に多くの人が、思うことな気がする。ワークライフバランスとかいう言葉が大嫌いだったゆえ。)
崇高な話ではなく、現実的な話。
ゴールを見据えていたときには、意味のあった犠牲も。
人の怠惰やレベルの低さゆえの問題からくる組織のあれやこれやというのは、世の中の仕事や経験としては、ただの無意味な時間であり、それは全くの純粋な私個人の人生の時間の犠牲でしかなく。
なぜ、僕がその自身の犠牲を払いながら、解決していかないとならないか?
そこに時間を使い続けていった先に、"世界の真実"のような崇高な目標ではない、ただ単純な自身の生き方の充実といった、未来が描けない。そんな当たり前のことに、気付き始めた。そんな三十路過ぎの考えなのでした。
ただ今も、暗闇に輝く北極星を目指し、気づけば街路灯の明かりに、飛んで火に入る夏の虫が好きではありますが。
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