『真昼の悪魔』遠藤周作 感想
はじめに
今回感想を書かせていただく本『真昼の悪魔』は遠藤周作によって昭和55年に刊行されました。
心が乾いていて、善い事をしても悪い事をしても心が満たされない、乾いた心を持つ女医が主人公。
彼女、大河内葉子が一種の傷害教唆をしたり、人体実験をしていく。
勤めている病院に巣食う悪魔として描かれていきます。
この本、というよりこのタイトルと出会ったのはドラマでした。
そのまま「真昼の悪魔」というタイトルで放送されていたのです。
主演の田中麗奈さんや脇を固める役者さんが、役にハマっていて面白かったのを覚えています。
久しぶりにその事を思い出し、調べてみると原作があったので、今回購入し読了しました。
一見するとサイコパス的な主人公を使ったサスペンスのように思いますが、現代批判(昭和55年時点)や悪魔について、医療に対する意見が見え隠れする作品でした。
宗教色や文学色はともに薄く、エンタメ作品としての側面が強かったように思います。
注目したポイント
魅力的でありつつも、普遍的な主人公
主人公、大河内葉子は今で言うと、罪悪感や共感能力に欠けるサイコパスという事になると思う。
1980年代からこんなキャラクターが居たのかとまず感心してしまいました。
そして彼女の現代でも新しい所は、自身のサイコパス性に悩むところでしょう。
マンガやドラマの敵役として登場するサイコパスは、自分に対して疑問を抱くことは無いと思います。
この点、葉子は新しい。
自分の乾いた心を満たす様に悪事を働いていきます。また作中に登場する神父に自身の悪事を告白したりしています。
自分を止めて欲しい、あるいは救って欲しいと言う心情を抱えているように思います。
話が少し逸れますが、本作では善悪の難しさについても描かれています。
葉子が行っていく患者の同意を得ていない人体実験、つまり悪事が、結果として善に繋がったりしていて、世の中の不条理さを感じさせます。
そしてこのサイコパス的な主人公は作中で”彼女”や”女医”として書かれることが多いのです。
個人名として書かれるよりも代名詞として登場することが多いのですね。
解説にも書かれている事ですが、心が乾いてつまらないと感じる現代人の代表として、主人公は描かれていたのだと思います。
1980年、僕は生きていませんが、”しらけた”時代だったのかもしれません。
作中でもしらけていると言う様なセリフがあります。
1970年に全共闘、1972年であさま山荘事件が起きて、学生運動はどんどん下火になっていったと聞きます。
この時代の若者には無力感が漂っていたのかもしれません。
政治に対する無力をなんとなく知った若者たちは、しらけつつ、しらけているからこそ刺激を求めていたのかもしれません。
また何が善で何が悪か、考えていないんじゃないかと時の大人たち(作者にも)思われていたのかもしれません。
悪魔なんて存在しない。
そう思う事が一番キケンだと作中では述べられています。
無気力と漠然とした不安のある時代だったのかなと思いました。
医療
医療に対して著者は活動的だったらしく、余命宣告を受けた人に対するデータ採取のための検査などには反対だったそうです。
心あたたかな病院キャンペーンというものに取り組んでいたらしく、作中でも入院した難波というキャラクターの不安な心情がしっかりと描写されていました。
さて、作中では主人公の葉子が人体実験を行いデータを採取するシーンがあります。
当然作中でもこの行いは批判されます。
やはり著者はそう言った事には反対だったのかなと思います。
安楽死や尊厳死まではいかなくとも安らかな病院生活についての主張は作品内でもされているように感じました。
『罪と罰』と『異邦人』
作中では心が乾いて罪悪感がない人物として描かれる主人公。
彼女は罪と罰のラスコーリニコフや異邦人のムルソーを自分の同類として引用します。
ただこの書き方はエンタメを優先させたなと思ってしまいます。
2作とも読みましたが罪と罰のラスコーリニコフは、人を殺した後、大きく動揺します。凡人の域を越えられずに苦悩し、結局は自首する話なのです。
葉子の様に悪事を働いた後もしらけたままという事は無いのです。
また異邦人のムルソーについても殺したのは太陽のせいと発言しますが、彼からすると本当に太陽のせいなのです。
もちろん解釈は人それぞれなのですが、個人的に上記の2人と葉子は別物だろうと思います。
なんとなくで悪者、サイコパスのイメージをもつ2人を引用したのかなと思います。
個人的には人物像にズレがあるかなとも思いました。
まとめ
今回読んでみて、ドラマとの違いを確認しつつ楽しめました。
また当時の若者評というのを覗けたようで興味深くもありました。
特に葉子に匿名性を持たせて、悪魔の側に立つことにを普遍的に書いたのは見事な現代批評だなと思いました。
文学や宗教的な側面よりも、エンタメとして楽しめました。
ドラマをまた見たくなるような面白い小説でした。