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#33 マルニ木工・山中武「デザインが会社を変える」(2021.3.5&12)

本日の会議相手は広島が世界に誇る家具メーカー「マルニ木工」の代表取締役会長(収録時は社長)である山中武さん。

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なんと山中さん、マルニが生んだ傑作チェアである「HIROSHIMA」と「Tako」を会議室に持ってきてくださいました。カミさんが座ってるのがTakoで私がHIROSHIMA。見えにくいかな?

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キチンとお見せしましょうね。こっちがTako。

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こっちがHIROSHIMA。いや~、座りやすいですね! 美しいだけでなくお尻にピタッとフィットします。

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デザインをしてくださった深澤直人さんは、試作検討会のときも、デザイナーとしてはもっと美しいカタチが頭にあるんでしょうけど、いつも自分に問い掛けるように「身体に訊け」「身体に訊け」って言われるんです。「デザインと座り心地の両方のバランスがよくないといい椅子にはならない」と。結果座り心地のいい椅子になってるんだと思います

それにしても広島人としては、HIROSHIMAという名の椅子があって、それが世界で評価されているのは嬉しい限りです。

ネーミングは深澤さんにお願いしたんですけど、僕は広島に育った人間として、椅子の名前をHIROSHIMAにしたいって言われたとき「うっ!」と思ったんです。やはり海外でHIROSHIMAというと、強烈なイメージがあるじゃないですか? でも深澤さんは「一度聞いたら忘れない名前だし、平和の象徴でもあるし、広島で作ってるんだから堂々とHIROSHIMAって付けようよ!」って言われて。当時はむりやり納得したところもあったんですけど、今は本当にいい名前を付けてもらったと思ってます。深澤さんが言われた通り、国内外の展示でも一発で覚えてもらえますからね

今でこそ世界に名をとどろかせているマルニ木工ですが、それはここ十数年の努力が実った結果。山中さんが実家である「創業1928年の老舗家具メーカー」を継いだとき、会社の経営は火の車でした。というか、そもそも山中さん、当初は実家を継ぐつもりはまったくなかったとか。

先代社長である僕の父親がむちゃくちゃな人だったんです! 天動説じゃないけど、自分を中心に物事が動いてると思ってるような人で。僕はそんな父にめちゃくちゃ反抗して、14歳から39歳まではずっと反抗期(笑)。アメリカに留学したのも、大学卒業後に銀行で働いたのも、「父と一緒に働きたくない」「マルニに入りたくない」っていう気持ちから。でも一方で「いつか帰って継がなければならない」という使命感はあって。で、僕が30すぎのときに叔父が訪ねてきて「会社がしんどい、銀行の対応が厳しい」って言うんです。そのとき僕はまさに銀行で不良債権の処理をやってて(笑)。それでマルニに戻ったんですけど、そのときはピーク時に300億の売上を立ててた会社が100億を切って、一番しんどい時期でした

当時、自社で家具の製造と販売を行っていた会社は、バブルの崩壊により瀕死の状態。4月に入社した時点で「資金繰りが厳しくてGWに会社がダメになるかも!?」という切羽詰まった状況でした。山中さんが行ったのは、銀行マン時代のスキルを活かしたリストラに銀行対応。もともとデザインに興味はなく、木にも興味ない。ものづくりそのものが興味の範疇外でした。

「とにかく会社が生き残ればいいんだろ?」と思って一時は工場を売却する絵も描いてました。ビジョンは利益第一主義。とてもイヤな感じでしたね。ただ、それを3年くらいやったけど経営は好転しなくて……。商品開発もやってましたけど、当時は量販店向けに安価な家具を作ってただけ。そのときは僕自身もマルニ木工の強みについてまったく考えてなかったんです

ニッチもサッチもいかないドロ沼の状況。その中で山中さんの目に留まったのが「デザイン」という光明でした。

利益第一主義で3~4年やってうまくいかず、とうとう「何かに賭けるしかない!」って状態まで追い詰められたんです。そのとき僕が自社のカタログを見て思ったのが、「自分のほしいと思える家具がないな」ってこと。もともとうちは猫足のクラシックな家具が主流で、同世代の社員がほしがるような家具がなかったんです。そこから「デザインが変わらないと会社が変わらないんじゃないか?」って思いはじめて、いろんなデザイナーと会うようになって。原研哉さんが書かれた『デザインのデザイン』を読んで、メーカーとして生き残るにはものづくりが変わらないといけない、ものづくりの先頭工程であるデザインが変わらないと会社はうまくいかない、と考えるようになるんです

そこから山中さんはデザインの向上に舵を切ります。プロダクトデザイナー・黒川雅之氏の「マルニの技術と情熱だけ引き継いで新しいプロジェクトを立ち上げよう」という言葉から「ネクストマルニ・プロジェクト」始動。初めて外部デザイナーと組み、イタリアのミラノサローネに出展。ものづくりへの原点回帰を果たし、市場を海外にも求めます。

そんな中、新生マルニを象徴するヒット作が出ます。先程から何度も名前が挙がっている、深澤直人氏デザインによる「HIROSHIMA」です(2008年)。

「すごいいい椅子ができたな」とは思ったけど、どう頑張って見積もっても1脚12万円はするんです。当時クラシックな高級家具でも10万円を超えるものは滅多になくて、そんな中で12万円の椅子は売れないだろうと。世界を代表する「Yチェア」が8万円程度だったので、私は「8万円でいく!」と言い張って。だから最初は大赤字でした。それは社内でむちゃくちゃ反発されたけど、みんながカイゼンを進めてくれて、発注が増えたこともあってなんとか成り立つようになりました(注:現在HIROSHIMAは税込10万円強~)

そのHIROSHIMAの評価を決定的にしたのが、2017年、あのアップル本社の新社屋であるアップル・パークから数千脚のオーダーが届いたことです。

当時1年間に作ってたHIROSHIMAの生産量と同じだけのオーダーが一気に来たんです! これは受注を受けたときより、納品した後に感動がありましたね。アップル社内の画像を見ると「HIROSHIMAがある!」って興奮して。去年アメリカの大統領選挙ではトランプさんとバイデンさんがクリーブランドのクリニックで討論会を行ったんですけど、そこにも何百脚か納めさせてもらってて。討論会の模様がニュースで映ったとき、HIROSHIMAもズラーッと並んでて、そのテレビ画面を社員が撮影して「HIROSHIMAが出てた!」って工場の掲示板に張ったりするんです(笑)。自分たちの手で作ったものが素晴らしい場で使ってもらえて、社員はすごく嬉しかったと思います

この探訪記の中でも「恐らく世界で最もデザインに厳しく、妥協しないAppleに『HIROSHIMAアームチェア』が採用されたことは、マルニ木工の長い歴史の中でも後世に語り継がれるエポックメイキングな出来事になるでしょう……」と書かれていますが、危機的状況だった会社がデザインのチカラで復活を遂げる、そのストーリーのクライマックスがこのエピソードなのでしょう。しびれる大逆転劇ですよ!

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山中さん、マルニが復活できた理由は一体何だったんでしょう?

現場が持つ技術力と感性が合ったんだと思います。うちの現場がずっとこだわってるのが「一次試作でデザイナーを感動させないと、そのデザイナーはやる気にならない」。だから絶対壊れると思っても、まずデザイナーが美しいと思うものを超えるものを出すんです。先輩たちがずっと引き継いできた不文律・コモンセンスみたいなものがうちにはあって、それが深澤直人さんの心を打ったのかもしれませんね

これまで連綿と受け継がれてきた職人たちの技と心。広島って実はコワダリにコダワリぬいた、ものづくりの街だったりするんです。

マツダさんを見てもアンデルセンさんを見ても、広島人は他の人がマネできないようなものをやってみたい気質が強くあるんじゃないですかね(笑)

では山中さん、最後にこの先の野望は?

Tako Chairのように製品を進化させていく一方、弊社は2028年が会社創業100周年なんです。うちの工場は佐伯区湯来町にあって、そこは本当に山奥ですけど、その湯来を「世界中の木工を志す人が一度は行きたいと思う場所にしよう」と話しています。いまはコロナなので大々的にはできませんが、工場の一般公開を再開したり、ワークショップがあったり、カフェやギャラリーがあってもいい。さらに兼業農家の社員もいるので、社員の家族が作った野菜や果物がふるまわれたりして。そんなことを深澤さんと話してたら「じゃあ本社を建てよう!」って言われて、どうなることか……(笑)

2028年には広島が木工の聖地に!! 広島にマルニがあることの誇りと歓び、もっと噛みしめてもイイと思いますよ。あー、マルニの椅子、ほしー!

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2021.2.26@HFM


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