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1983 / バンクーバー・シアトル・トロント・モントリオール①

 1983年2月、大学生の私は北米旅行を敢行した。初めての海外をひとりで回るという、ちょっと冒険したツアーだった。英語にも自信はなかった。ただ、バンクーバーに日本人の知人がいたので、同地を起点にして旅をスタートさせることができた。

 当初は細かいスケジュールを立てず、とりあえずカナダの雰囲気に少し慣れたら、アメリカ・シアトルにバスで渡った。それから、いったんバンクーバーに戻って、トロントへ国内線で飛んだ。トロントとモントリオールの間は列車で往復し、最後はまた、トロントからバンクーバーに戻って来た。2週間の旅程は、結果としてこんなふうになった。

 ずいぶん昔のことだから、あまり細かいことは覚えていないし、行動日の前後関係も怪しい。ありきたりの観光報告をしてもつまらないから、印象に残ったエピソードなどを少々。

 バンクーバーまではCP Air(Canadian Pacific Airlines、現在のカナディアン航空)で飛んだ。オレンジ色の洒落た機体で、乗客はもちろん欧米人が多数派だったが、なぜか私の座席の周りには香港人が固まっていた。バンクーバー空港の持ち物検査では、みやげものとして持って行ったパックの大根の漬物がひっかかった。これは、’Pickles’と言って切り抜けた。香港人たちは、大荷物の人が多く、けっこう細かくチェックを受けていたと記憶する。

 バンクーバーは、周知のとおり港町である。一見して、「横浜に似ているな」と思った。のんびりした雰囲気で、人通りもまばら、治安もよい方であった。ヴェトナム戦争後ということもあってか、同国の人たちも移り住んでいた。生まれて初めて、ヴェトナム料理店に入り、春巻きなどをおいしくいただいた。バンクーバーからは、サンフランシスコに渡ろうとも思ったが、カリフォルニアでは、ロスアンゼルスをはじめとして発砲事件が多発しているということを聞いてとりやめにした。それで、比較的近くて安全なシアトルに向かうことにした。

 シアトルへは、そのころ北米旅行の移動手段の定番だったグレイハウンドのバスを使った。車体は、銀色の鈍い光を放つ金属の箱で、いかにもアメリカを感じさせた。空港以外で国境を越えるという行為に違和感を覚えたが、考えてみると、普通国境は国土の境界線を意味するので、空港に国境があると考えるのは、飛行機で動くようになってからの一種の錯覚なのかも。

 シアトルでは、まず観光バスに乗って、市内やワシントン大学をまわった。乗客は私一人。運転手さんがガイドも兼ねていて、ウルフマン・ジャック(当時のアメリカの人気DJ)みたいな’だみ声’ながら、分かりやすい英語で案内してくれた。ワシントン大学の博物館でイヌイットの展示などを見たが、ここも見学者は私一人。とても冷え込んだシアトル初日だった。

 シアトルでは、予約してあったビジネスホテルに泊まった。アメリカのホテルは安いのに、ずいぶん設備や衛生状態がよいものだと感心した。翌朝でかけるときに、フロントに鍵を預けようとすると、40歳前後と思われる美しい東洋人女性が声をかけてきた。このホテルの経営者だと言う。同じ東洋人である日本人が宿泊していると知って顔が見たかったとのことだった。これから、シアトル市内まで車で出かけるので、乗せていってくれるという。私は、「とても助かります」と便乗させてもらった。

 彼女は、運転しながら町の説明をしてくれたりと、たいへん親切だった。英語発音の訛りから「中国人ですか?」とずねると、「台湾人(Taiwanese)だ」と少し強い口調で応えが返ってきた。恥ずかしながら、当時の私は ’Taiwanese'という単語があることも知らず、また、なぜ彼女が、あえて自分を「台湾人だ」と強調した理由も分からなかった。とにかく、アメリカで初めて親切にしてくれたのが、同じ東洋人だったことがとてもうれしかった。

 シアトルではスターバックスコーヒーが増えている、とバンクーバーで耳にしていたが、現地でカフェを見つけることはできなかった。街の印象としては、ここも港町だったかということぐらいで、どこを見たのか、何を食べたかなどがあやふやである。マクドナルドとケンタッキー・フライドチキンは食べたような。

 今回は旅行記第1回。次回、バンクーバーに戻ってからのことから。