見出し画像

1984 / 香港・広州・桂林

 年末・年始休暇に入ったので、久しぶりにガラクタやら本やら、家内の要請に従い整理し始めている。

 作業中、中国旅行の古くなった旅程表を発見、しばらく眺めていた。1984年のものである。主催した旅行会社は、ずいぶん前に倒産したと聞く。

 季節は8月。福岡空港を出発し、香港は啓徳国際空港にキャセイ航空の旅客機到着。広州、桂林をまわり、香港に戻ってくるツアーである。当時、私は最初の赴任地である九州で仕事をしていたので福岡発着を選んだ。香港は返還前。中国本土の広州へは、「波止場」(と旅程表に記載してある)からホバークラフトで渡った。

 私は入社してまもないサラリーマンであった。学生時代最後に敢行したカナダ・アメリカ旅行からさほど年数は経っていなかったが、改革開放路線で渡航しやすくなった中国への旅行は、一種の流行のようなところもあって、再び大枚をはたいたのだ。

 1984年の香港は昨今とはだいぶ違う様相だった、と思う。人や車の多さは今とあまり変わらないだろうが、まだ英国領だったのだ。この初訪問後、2000年以降に私は同地を2回訪れているが、「スターフェリー」、古い建物、街の匂いなどに往年の雰囲気は残っていたものの、モダンな高層建築が目立ち、欧米人が少なくなったこと、さらに中国語使用が増えたことなどもあってか、コロニアル感は乏しく感じた。最近のテレビ報道で見る香港も同様の印象である。何よりも、昔の香港には、猥雑さや東西文明のカオスがあふれていた。映画にも登場するアバディーンの水上レストランは、俗悪ながら、異国の夜にギラギラと輝くその姿が象徴的光景として目に焼き付いている。

 桂林は定番の観光地で、中国国際旅行社のガイドさんが案内してくれた。日本語に堪能なキュートな若い女性で、バス移動中には、松田聖子の「赤いスイートピー」などを歌って楽しませてくれた。桂林の中心地は自由に回れた。幅広の道路にはすごい数の自転車が走り、私もゴツゴツした感じの黒い自転車を借りて動き回った。映画館に入ることもできた。上映されていたのはソビエト映画で、座席は木製ベンチで硬かった。観光の目玉の「漓江下り」はのんびりしていて、船上で他ツアーの男性ガイドとも会話した記憶がある。政治や社会の話ができたのは、当時の時代の雰囲気から可能だったのだろう。漓江の河辺に遊ぶ子供たちが目に眩しかった。桂林の風景は、地上で見たものだけでなく、着陸時に中国民航機から見た赤く奇怪な地形が素晴らしかった。宿泊したホテルのディスコでは、Thompson Twinsの ”Hold Me Now” が繰り返しかかり、中国人らしき若い男女数人が踊り続けていた。

 広州では、喧騒と人波に圧倒された。香港にはない別のエネルギーを感じた。ツアーのメインは食事をすることで、予想外の豪華な広東料理に出会った。野菜や豚肉の料理が強烈だったが、味付けは香港とはだいぶ異なり、私には香港のものの方が食べやすかった。昼間、バス移動中に見えた広州の郊外には農村が続き、古い中国映画に見られるような、のどかな風景であった。

 ガラクタ整理をしながら、80年代の小旅行が脳裏に蘇ったわけだが、こんな気楽な旅行はコロナ感染が続く限り難しいだろう。今年3月に計画していた初のロシア旅行・ウラジオストク訪問はあえなく中止。50歳を過ぎてから、まずまずの頻度で海外渡航ができて、自分としては満足しているものの、これからの人たちの楽しい旅が危機に瀕していることを考えると暗澹たる気持ちになる。

 年末の午後、今後は宇宙旅行の大衆化がメインストリームになっていくのか、などと思い巡らすのである。