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【いつも応援してくれていた母へ】 もう13回忌を迎えたよ、僕は元気です

私にとって母の精神的な病は、とても大きなものでした。特に、初めて精神病院に入院している母を見たときの姿は衝撃的で、今も鮮明に記憶に残っています。その後も母は入退院を繰り返し、私が小学生の頃には帰り道に家を外から見るだけで、母の具合を感じ取れるようになっていました。家に入る前から「あ、今日は具合が悪そうだな」とわかるのです。

母の具合が悪い時期には、祖母が家に来てくれました。祖母には本当にお世話になり、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

特に印象に残っているのは、小学校4年生の頃の出来事です。母が泣きながら「もうダメだ。ごめんね、こんな母親で。一緒に死んじゃおうか。裏の鉄橋から飛び込もう」と私に頼んだことがありました。そのとき、私は「嫌だ、死にたくないし、お母さんも死なないで」と言いました。この経験が、「生きる」ということについて深く考えるきっかけとなったのかもしれません。

母を愛している、と心から気付けたのは、実は最近になってからです。大切だと思っていたものの、本当に大切にしてあげられたかどうか、自信はありません。母は晩年、大腸癌を患い、精神科の通院も続けていました。そのため、私は病院に付き添う機会が増えました。2012年2月、母は一度手術を受けましたが、経過が思わしくなく、食事を口から摂ることができなくなりました。担当医と父、そして私で話し合い、母に延命治療か再手術かを選んでもらいました。母は再手術を選びましたが、その数日後に亡くなりました。

その最期のとき、母は頑張ったのでしょう、私の長女の誕生日である3月3日の午前2時に息を引き取りました。その時を思い返すたびに、母の強い想いを感じます。今年(2024年)の3月に十三回忌法要を行いましたが、母は、いつでも、どんなときも、私を応援してくれていたのだと今でははっきりとわかります。

母の最期の数週間、私は母の凛とした美しさと強さを感じました。「ご飯を食べたい」と生きる意思を強くあらわしていた母からは、不思議と心の弱さが消え、力強さが感じられるものでした。このとき、手を握りました。手の小ささを感じましたが、あたたかったです。
いまでは、母がどれほど私を大切に愛してくれていたかがわかります。
母のことを思い返すことが、母の供養になるのではないかと考えています。

浄土真宗で母を弔い、法名として「釋松光」をいただきました。母は松枝という名です。
ご住職からは次のような説明をいただきました。

「松は松葉、光は阿弥陀如来を象徴しています。『ありがたや、弥陀と私は松葉かな、どこに落ちても二人づれ』という歌があります。松葉が対になっているように、私たちがどのような境遇にあっても阿弥陀如来は私たちを離れず、摂取してくださるという意味が込められています。」

息子が言うのもなんですが、母は本当に「光」のような明るさと優しさを持った人でした。しかし、その優しさゆえに、自分を責め続け、心が参ってしまったのかもしれません。

年に数回、父とともに母の墓参りに行っています。
「ありがとうね。元気でやっているよ」と報告することが、私にとって大切な時間です。父と一緒に墓参りができる時間もどれくらい残されているのかと思うと、一つ一つの訪問がより貴重に感じられます。

母の愛情を思い出し、感謝することが、これからも私の人生の支えになり続けると思います。

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