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父の最期の時間:血の繋がりを受け入れる
父との別れと向き合う時間
2024年12月27日、父が救急搬送され意識を失いました。それ以来、父と再び会話することは叶わず、12月30日に永眠しました。そして2025年1月10日に葬儀と火葬を終えました。
最後に父と二人で昼食を取ったのは、2024年12月1日、華屋与兵衛でのことでした。鰻を食べながら日本酒を酌み交わしました。特別な話をしたわけではありませんが、母の墓参りを提案した際、父は「いや、行かない」と答えました。その場では遺産や実家の相続についても話しましたが、父は私が再婚していることすら覚えていませんでした。一方で、株や競馬の話題には生き生きとした表情を見せていました。
父は厳格で几帳面な性格で、昭和的な価値観の持ち主でした。戦後教育を受け、終戦時には7歳だった影響もあり、競争を好む自由主義的な一面がありました。高度経済成長期を支えたことへの自負が強く、愛社精神に満ちた人生でした。父にとって、人生とは仕事そのものであり、社会的な評価を何よりも重視していました。
父の人生観は私にとってしばしば厳しく感じられるものでした。母を虐げる姿や、男尊女卑的な考え、無駄に高いプライドといった面が強く記憶に残っています。しかし、一方で外に対しては穏やかで、部下に対しては思いやりを持って接していたようです。
父との思い出
父との関係において、ここ数年「今会っておかないと死んでしまうかもしれない」という思いを抱いていました。2018年2月、父と二人でスペイン旅行に行ったのもその思いからでした。ガウディの教会を見たいという父の希望を叶えるための1週間の旅でしたが、父はとても喜んでくれました。今回、遺影に選んだ写真も、ガウディの前で撮った一枚です。
また、父と叔父、私の3人で、本領家のルーツを探る旅にも出かけました。石川県七尾市中島町にある祖父の生家を訪れ、祖父が17~18歳まで育った場所を確認しました。曾祖母の実家が「田端」という姓であることを知り、その後、群馬県安中市に移住した経緯をたどることもできました。七尾市の能登屋に泊まった翌朝、父が「松枝(母)はどこに行ったんだ?」と母を探した時は驚きましたが、それはその日その朝だけの出来事でした。
父への思い
父と私は異なる感性を持つ人間です。そのため、父の生き方や考え方に対して、近親憎悪のような感情を抱いていた時期もありました。父の中にある恐れやデリカシーのなさに対し、距離を感じることもありました。しかし、それでも私は父の血を受け継いでいます。父の中にあった「弱さ」もまた、自分自身の中にあると気づくことがあります。
父は苦しむことなく亡くなりました。安らかに眠ってほしいと思います。そして、私が思う以上に、父は母を深く愛していたことを今感じています。2024年3月の母の13回忌の席で、父が母への愛を言葉や態度で示していたことも思い出されます。
父と母、それぞれが異なる個性を持ちながらも、私の中にその血が流れている。この事実を、これからも受け止めていきたいと思います。
論語を読み直し、「仁」「忠恕」「礼」といった言葉を通して、自分自身のあり方を問い直す時間を大切にしています。父から受け継いだもの、そして父との時間の意味について、これからも向き合い続けることで、自分自身の道を歩んでいきたいと思います。