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母がいた-28

今、お酒を飲んで家まで帰るタクシーに乗っている。今日もよく飲んだ。家までの帰り道にある建物の前を通った時、突然母との記憶を思い出したのでお酒に負けずに書いてみようと思う。

小学校に入学する少し前くらいのこと。今住んでいる家とは違ったが、地域としては同じ区切りの街が活動範囲だった僕は、母とよくお出かけしていた。スーパーやお菓子屋さん、文房具店などだ。

確か小児科にかかった帰りだったと思う。病院を出たあたりで母が「おもしろそうなものがあるよ」と僕に声をかけた。母の指さす先を見ると、今でいう証明写真ボックスのようなものがある。その壁には大きく可愛いフォントで「プリント倶楽部」と書いてあった。プリクラだ。それも本当に初期も初期、プリクラ黎明期の筐体。

当然僕はそれが何をするための機械なのかわからず「なにこれ」と言った気がする。母はいいからいいから、と僕をその筐体の中に呼び込んだ。当時のプリクラはバストアップの写真しか撮れず、母と椅子に座って撮影した記憶がある。母がお金を入れて案内に従い好きななフレームを選び、女の子の声で「カメラを見てね」と言われてもどこがカメラなのかわからなかった僕は画面らしきものを見つめる。数秒のカウントダウンののち、カシャッというシャッター音が数回鳴って、次は「プリント中だよ!」と可愛い声で告げられる。

なにがなんだかわからず呆けている僕を椅子に座らせたまま、母は筐体側面の取り出し口に向き合っていた。しばらくして、母が印刷されたシールを取り出して僕に見せる。そこにはどうみてもカメラ目線ではなく焦点の少し下をぼーっと見つめる僕と、満面の笑みの母が移っていた。当時のプリクラはセピア色の一色刷りで、画質も相当荒いものだったが、ついさっき撮った写真がすぐにシールとして出てきていることに少し感動した。

母はそれを大切そうに1枚剥がし、当時使っていた携帯電話の裏面に張り付けた。ニコニコしている母を見て、なんだか照れくさい気持ちになったのを覚えている。残りのシールはシートごと家に持って帰り、家庭用電話が乗った電話台の引き出しにしまわれた。

それから何度か引っ越しを経験したが、僕の人生初のプリクラは運良くごみ袋に入れられることを免れ、今も僕の家に保管されている。もうシールの粘着剤はカピカピに乾いてしまって、たぶん剥がせばそのままぴらりと落ちてしまうと思うけれど、なんとか原型を保ったまま数十年の時を生き延びている。

引っ越しの際やたまに見返したときなんかに、どこかに貼ろうかな、と思ったりもするのだが、これから先ずっと使い続けるだろう物があまり身の回りにないせいか、どこにも貼らずに今に至ってしまった。

一枚だけ剥がされた、とても古いプリクラ。その一枚は母が使っていた携帯と一緒に遺影のそばに飾られている。一枚も欠けることなく今まで保管されているプリクラはこれが最初で最後だ。きっとこれからも減ることはないのだろう。

母はよく携帯の裏側を見ては「かわいいよねえ」と言っていた。その頃の僕は思春期真っただ中だったので「勘弁してくれ」と思っていたのだが、今思えば母にとって僕と2ショットで撮った貴重な写真だったのだろう、本当に大切そうにプリクラを見つめる母をなんとなく咎めることはできなかった。

今ではスマホ片手に高画質の写真を手軽に撮ることが出来て、フィルターやフレーム、加工なんかもあっというまに施せてしまうけれど、僕にとってそれらよりも価値のある写真は、母と撮ったあのプリクラだったりする。

いつかもっと大人になって、ずっと使い続けるものが出来た時には、あのプリクラを貼ろう。フットワークが軽く、小児科の前に置かれたプリクラに喜び勇んで駆け込んでいった母のことをいつでも思い出せるように。

タクシーから見た建物は、あの日僕が受診した小児科のテナントが入った建物だった。どこでどんな話を思い出すか分からないものだ。そのうえいつ忘れてしまうかもわからないときた。そんな理由もあってお酒でふわふわになった僕はこの記事を書いている。

別に盛り上がりも教訓めいたものも含まれていないが、こういう思い出こそ忘れないうちに書き留めておきたいと思い、今回の記事を書いた。また思い出したら書こう。

少しミーハーで
ずっと残る思い出を
作ってくれる
そんな、母がいた。

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