母がいた-50
本記事にはいじめについての描写が多く含まれます。
上記について抵抗のある方は閲覧をお控えください。
僕は、いじめられていた。小学校3年生から、中学2年生までの間。羽交い絞めにされて殴られたり、ランドセルの中身を池に投げ込まれたり。みんなが「いじめ」と聞いて思い浮かぶことは、だいたい経験してきたと思う。
僕は変わった子どもで、たしかに周りから浮いていた。挙動は変だったろうし、会話もうまくできない子どもだった。「キモい」と思われてもおかしくない子どもだった。でも子どものころは何がいじめっ子を苛立たせているのかなんてわからなくて、ただただ「痣が残るから今日は顔を殴られないといいな」と思いながら学校に行き、学校が終わって玄関の前に着くと笑顔の練習を数回して、元気に「ただいまー!」と帰るようになっていた。
いじめが激化したのは小学校4年生の時。担任の先生が、クラスのいじめに加担したのがきっかけだった。僕だけ机を窓の方に向けて授業を受けさせられたり、廊下に締め出されて給食の時間になるまで入れてもらえなかったりした。クラスのみんなが、僕を「どう扱ってもいい奴」と認識した瞬間だった。
今なら「学年主任の先生に直接言う」とか、「親に相談する」とか、いろいろ取れる行動は浮かんでくるけど、当時は学校と家が「世界の全て」だ。そんなことをしたら僕はどこにも居場所がなくなってしまうんじゃないか。家にもいられなくなったらどうしよう。生きていけない。そう思うと、どちらの行動もとれなかった。
そのまま約一年が過ぎたころ、いじめが大人たちにバレた。バレたって書き方はよくないな。発覚した。表面化した。問題になった。公のことになった。クラスメイトのひとりが、僕が同級生や担任からいじめられているのを見ていられなくて、親に相談したのだそうだ。
すぐに母が学校に呼び出されることになり、教育主任や教頭など偉い先生方をまじえて話し合いが開かれた。生活指導室で母を待つ間、僕はとんでもないことになった、と思った。結果として僕を救おうとしてくれた同級生を恨みさえした。当時はまともな精神状態じゃなかったんだろう、余計な騒ぎをおこしやがって、とまで思ったのを覚えている。
向かいのソファには担任と、いじめの主犯格だった生徒数名がいる。この人たちと同じ場所にいるのが苦しい。いつまでここにこうして固まっていればいいんだ。
子ども心に、いじめという問題がすぐに片付かないものであることを肌で感じていた。だから、きっと今回の問題もなあなあになって適当な謝罪をされて、より陰湿ないじめになるだけだろうと諦めていた。
のどがカラカラなまま椅子に座り続けてしばらく待つと、母が来た。ドアを静かに開けて、「お世話になっております」と丁寧なあいさつをする。僕はずっと床のタイルを見ていた視線をあげて、母の方を見る。
そこにいたのは僕の知らない母だった。手を震わせ、いつもの優しい顔ではなく、冷静に憤った様子で担任を睨みつける、強い、強い怒りをたたえた「母親」がいる。
「息子を」
「息子を今すぐ別室にうつせますか」
「こんな醜悪な場に、息子を置いて」
「本当に、何を考えたら、いじめをしている担任と同級生と、同じ場所で、長時間待たせるなんてことが、出来るんですか。そこに座り続けることが、どれだけ息子のストレスになるのか、考えることも難しいですか。」
母はそう言って僕を立たせる。いつもと違う母に動揺しながら、僕はほかの先生に連れられて生徒指導室を出た。保健室に着くころには、どっと疲れがこみあげてきて、その場で吐いてしまった。
保健室で横になっていても、まったく眠れなかった。時間が進むのが遅い。あんなに恐ろしい場にひとりで足を踏み入れて、母は何を話しているのだろうか。
数時間経って、母が保健室にやってきた。いつもの母だ。「帰ろう」と声をかけられ、僕はカバンをもって母に続く。
校門前に来たあたりで、母は僕の背中に手を置いて「気付けなくて、ごめん」と謝った。母は泣いていた。僕は母を泣かせてしまったこと、今まで自分から言い出せなかったこと、あんな場に来させてしまったこと、いろんなことが申し訳なくなって、「ぼくのほうこそ、ごめん」と言って、二人で泣きながら校門をくぐった。
「帰りにケーキと、お菓子と、ジュースと、いろんな物を買って帰るよ」
そう言って母は、本当にカゴいっぱいのお菓子とホールケーキを買って帰り、二人で晩御飯前にお腹いっぱい食べた。その時、母に言われた言葉がある。
「今はしんどいとおもう。たぶんいじめもなくならない。これから数年はだいすけにとってつらい時期になると思う。休みたいときは休んでいい。もしあたしがこれ以上介入すれば、いじめはひどくなると思う。だから、二人で堪えよう。あんな場所、卒業しちゃえばあんたの勝ちだから」
母は、現実を見ることに長けている人だ。きっとこの人の言うとおりになる。いじめはなくならないし、これ以上大人の助けを借りたら余計ひどくなるのもきっと事実だ。僕はそう確信していた。でも、不思議と怖くはなかった。思いを共有できる相手がいることの心強さを、僕はこの時初めて知った。
翌日学校に行くと、担任の姿はなかった。自主退職ということになったそうだ。新しい担任の先生は、とても怖くて、厳格で、教室の隅まで目を光らせる先生だった。
母の予想通り、いじめはなくならなかった。先生の見えないところで陰湿ないじめが続くようになっただけで、あまり現状は変わらなかった。それでも、僕には数人の友達が出来たし、家に帰れば「今日こんなことをされて腹が立った」と相談することもできた。
あの日を境に、僕の気持ちにはいくらか余裕のようなものが出来た。
「卒業さえしちゃえばあんたの勝ちだから」
その言葉が僕の胸をスッと軽くしてくれた。
結局、あの日母がどんな話をしたのか知る機会は訪れないまま、中学二年生の時に両親の仕事の都合で引っ越しと転校が決まるまで、いじめは続いた。
母は直接関与こそしなかったが、僕の幼馴染(僕の一つ上でとっても面倒見の良いヤンキー)に、僕をいじめる同級生たちを見張るよう言ってくれていたらしい。それを知るのは母が他界したあとのことだったけれど。一時期からいじめが減ったのはその影響だったらしい。
転校先の学校は生徒の数が少なくて、生徒それぞれの個性が尊重されていたので、僕の「変」な部分も大して目立つことなく、みんなと仲良くなることが出来た。環境を変えるだけで、世界はこんなにも変わる。今自分がいる場所が世界の全てではないと確信できた場所だった。
その様子を見た母は大変よろこんでくれたようで、友達を連れて帰るといつもお菓子をもってきてくれるようになった。思春期で恥ずかしかったけど、母が僕の友達に向けるまなざしを見ると無下にする気にもなれなかった。
いじめという行為、空気、文化、それらを僕は今でも許せない。いつになってもなくならないくだらない「カースト」のようなものも、馬鹿らしいと思っている。でも、いじめられた側の人間として、自分と同じ思いをさせないために人にやさしくすることができると学んだのも事実だ。
あの時の僕にとっての母のように、誰かのよりどころになれたら嬉しい。誰かのために怒ったり、誰かを優しさで包むことが出来る人間でありたいと、僕は思っている。母に胸を張れる人間になりたいと、ずっと思っている。
僕のために静かに怒り
苦しかっただろうに
何もしないことを選んでくれた
そして世界の広さを教えてくれた
そんな、めちゃくちゃかっけえ、母がいた。