1串の親孝行
私の記憶の糸は、たどっていくと大抵、食べ物に繋がる…
今年は土用の丑の日が2回あったと聞く。
うなぎの蒲焼きは大好物だが、しばらく食べていない。
最後に食べたのは2011年の4月1日、午後1時少し前だった。昨今物忘れのひどい私だが、しっかり覚えている。
その前の日に病床の父から「どうしても食べたい蒲焼きがあるんだけど」と告げられた。
かなり前にふらりと立ち寄った、カウンター5席ほどの小さなお店で、「いままでで最高の味だった」と。もうかれこれ3週間ほど、病院食を半分も食べられなくなった父が「食べたい」って。
お店の名前は忘れたというので、「(鎌倉の隣の)大船駅から歩いてすぐ」「少し奥まったところにある」を手がかりに、グーグルマップをチェックしながら、私は大船駅周辺をぐるぐる歩き回った。
1時間近く探したがうなぎ屋は見つからない。工事現場のおじさんに訊ねると、「この辺りはあまり詳しくない」とつっけんどんな答えだったが、ぐるりと周囲を見回したあと、「あ、あの旗、うなぎって書いてあるよ」と教えてくれた。
地味で小さな、奥まったところにある店。あれに間違いない。感激する私に、「そんなに食べたかったのかよ」とおじさんは唖然としていたに違いない。
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父は肝臓がんを患い、ながいこと闘病生活を送っていた。2011年3月に体調が急変し、「まもなく意識障害を起こすかもしれないので来たほうがいい」と姉から連絡があった。ハワイの3月13日のことだ。
地元新聞社に勤務していた私はそのとき、アラモアナセンターのステージで行われていた東日本大震災復興支援イベントを取材していた。その2日後、私は取る物もとりあえず、混乱の真っ只中にあった日本に向かった。
父はかなり痩せていたが、いつもの父だった。
私の知っている父だった。
意識障害を起こすこともなく、父は相変わらずよく喋り、自己チューで、お調子者で、頑固で、家族をイラッとさせるほど、ありがたい父だった。
二十歳そこそこで日本を離れた私は、あの日、全力でうなぎ屋を探した。
ここで一緒に食べられたら、どんなに美味しかっただろうに。
どんなに楽しかっただろうに。
うな重が出来るのをカウンター席で待っている間、なんども泣きそうになったので、おもしろ動画を眺めて踏ん張った。
「そうだ。このうなぎだ」と、父は2串のうちの1串を一生懸命食べて、残りを私にくれた。そして「昼寝の前にトイレに行ってくる」といい、帰らぬ人となった。
大好物だったうなぎは、あれから食べていない。
いや、まだ食べられないのかもしれない。
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