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共感で繋がることの脆さ

今日は「花束みたいな恋をした」の2回目を見た。

ちょうど1年前くらいに痛くもかゆくもなかった、映画を今日2回目を見た。
お家にU-NEXTが付いていて、そこにちょうど入っていたから、ご飯も作らずに食べずに見た。

ちょうど1年前は、仕事をせずに何も気にすることなく社会人になることを待ち侘びて生きていた生活だった。今は仕事がメインとなり、1年前とは生活が全然違うから、今回は見る視点が違くてnoteを書きたくなるくらい、思うことがあった。
1回目はただ分からずにふーん。と感じていたが、2回目は私に考える機会をくれた。

ここからは少しネタバレ的なことも気にせず書いていくので、見たくない人は映画を見てから読んでくださいね。

今回の主人公は麦と絹。

最初は出会った時にお互いを引きつけたのは「言葉の共感」「物事に対する考え方」であった。麦と絹はいわゆる普通の人にはわからないような感性の持ち主だった。よく出てくる言葉は「あの人は、今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じないんだろうね」この言葉は映画の象徴的な言葉でないだろうか。

麦と絹の間には、二人の中に確かな「共感」が強くあった。

しかし、この共感を維持するために仕事をし始めると歯車が狂い出した。
麦は「今の生活を維持するために仕事をする」と言っていた。だから好きな絵を描くことも、共感をし続けることもできるねという計画だった。

計画はときに狂う。

麦が仕事をしてから、明らかに価値観が変わった。
麦が絹に対して「いつまで学生気分なんだよ」と不満をこぼしていた。

共感とやりたいことで生きる絹。
仕事だからと生きる麦。

共感で繋がっていたのに、狂った。そこに麦は気付かずに、絹との共感の軸から離れていった。そこに絹は気づいていて、でも顕著には示さなかった。

今村夏子にハマる絹とパズドラを息抜きにする麦。
この二人の姿は私の理想(絹)と現実(麦)でしかなかった。
共感に溢れる生活を送るりたい私と仕事に追われる生活の私。
ここが考えさせれるポイントだった。
果たしては、私が描いていた理想の生活をしているのだろうか。
きっとそうでないから引っかかった。
もう一度自己分析をする必要があると感じた時であった。

話は映画に戻って、最後のファミレスのシーン。
あそこの意味合いを自分なりに解釈してみた。

最後のファミレスのシーンで自分たちと同じ境遇の男女を見て、やっと2人が共感の軸に戻った。何を大切にして、何に共鳴しあっていたのかを確認する場だった。

「じゃあ結婚しようよ」という麦もこの若い男女を見て、別れる理由が明確になった。ただ、共感の軸を確認したからといって明日からは戻れない。仕事があり、生活するためには必須だからだ。

共感の軸で繋がることを理想としていた私のカップル像はこの映画をみてかなり難しいことなんではないかと考えさせられた。そのためには話し合うことなどのそれ相応の努力が必要なのだと実感させられた。

ぜひみなさんも、この映画をみて思うことあったら教えてくださいね。





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