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ほのぼの日和#3 働くとは―幸せの基準―

ウガンダの人たちは、真昼間でも働き盛りの男性でも、道端に座っていたり、ただ家の周りをうろうろしていたりする(もしかしたら、何か理由があるのかもしれないけど)

彼らにとって、働くとはどういうことなのだろうか。小さなお店の中に、何人もの大人がただ座っている。警備員さんは、何時間も門のところにいる間、誰かと電話したり、ラジオを聞いたりして暇そうにしている。私たちの運転手も、私たちを語学学校に送り届けたあと、私たちの語学学校が終わるまでずーっと、ただひたすら8時間余り待っている。何をして待っているのか、寝ているのか、携帯ゲームでもしているのだろうか、そうはみえないけど。日本の感覚からしたら、私たちを送り届けた後、そんなに時間があるならほかの人をどこかに送ったりするのではないかと思ってしまう。

働くとは、決められた時間、決められた仕事をしてそれにかわる対価をもらう。そのことにやりがいを感じるから、続けられる(お金のためが大きいかもだけど)。もし、彼らが日本のように“便利で快適”な生活が送れるようにしようと思ったら、まず収入を増やさないといけない。そうなると、朝から晩までしっかり与えられた仕事をこなさなければならなくなる。もっとお金を稼ぐためには、残業までしないといけないかもしれない。果たして、それのどちらが幸せなのだろうか。そこまでして働いて収入を得て、得られる幸せ、快適さとは何だろうか。本当にそれは望まれる生活なのだろうか。

つい、私たちは自分がしていた生活(日本での生活)がいいと思い、こっちの国では何が足りない、まだ発展していないと、「~ない」で考える。けど、それって本当に必要なことなのだろうか。もちろん、私たちは彼らの生活を少しでも豊かにする、よくするために活動しているけれども、その“よい”基準とは何なのだろう。

私は今までコンビニも信号もろくにない田舎に住んでいたせいで、都会に慣れていない。そのため、大きな都市で地下に道がある場合、どこに行けばどこにたどりつくかよくわからなくなり、逆に不便だと思ったことが何度かある。普段目でみて、あ、ここだ!と思って行っているのに、すぐ目の前の目的地でさえ、わたる場所がないため、どう行けばいいかわからない。地下に道があるというのは、きっと普通の人にとっては信号待ちや渋滞を回避できる便利なものとして認識されるだろう。しかし、普段信号待ちや渋滞の問題を考えたことがない私にとっては(そもそも方向おんちなのもあるが)逆に不便であり、需要すらないのである。

誰にとっても、便利なもの、役に立つものとは意外に少ないのかもしれない。発展していくとは難しいことである。ましてや、それを外部の人が手伝うなんて。そもそも、それが、その人たちにとって望まれている発展なのかわからないからである。でも、それは現地の人も知らないし、わからない。今の生活でいいと思うのは、私たちの思う“快適な”暮らしを知らないからかもしれないし、そうではなく残業もない、ただぼーっとゆっくり仕事をしていれば、最低限生きていける分の給料をもらえる、それだけでもいいのかもしれない。

それは、私たちと彼らが会話して、向き合って見つけていく答えなのかもしれない。

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