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hon toni maa

※画像は ヨハネス・フェルメール/メトロポリタン美術館 さまより拝借致しました。ありがとうございます。


深謀遠望は浅慮に似たり。あ、おはようございます。いま自分のなかでは、思考のパラダイムが移って行っている。其れは次第次第に表面化してきているけれど、まだ大きな事には至っていない。



いわば、ひとつの遷移期な訳だが。なぜ人は、自分とは異なるひとに惹かれるのだろう、そして同様に、どうして自分とおんなじ人にしか惹かれないのだろう。不思議だなと思う。そして、いつまで自分のことを「現役感」をもって捉えていられるのだろう。



そんなことを思いながら、飯が炊けるのを待っている。そういえば子規の随筆集だったか『飯待つ間』ってのがあったな。子規はあらためて読もうかと思っていて、数年が過ぎた。いまは茂吉山脈を彷徨中。




寝床で無門関第一則のことを考えていて、一定の理解を得た。が、それを捨てたら、それで終いだ、ってことをもう、随分前にやったよなあ。なるほどなと。それをここで書いてみても始まらないから書かない。今はもっと、意識的な活動を意識的に取り組んでいる。執筆についても。




改めて、養老孟司を読んでいる。いや、聴いている、オーディブルで。バカの壁、恥ずかしながら、でもないがはじめて聴いた。むしろ、彼の著作に触れたのは『唯脳論』の方が先。いや、おもしろい。なにが面白いって、いや、オーディブルという仕組とバカの壁のあいだの、シンクロ率についてなのだが。ああした話は口伝みたいにしてつたわるのが、いい。それにしがみつくための論じゃないから。無門関も然り、禅とは忘却に似ている。




しかし、フェルメールの絵は美しいな。あらためて。




さて、今回も本を。と、おもったけれど、この名盤を。

今夜はブギーバックは、やっぱりこの、あんまりもの考えてない感じのオリジナルバージョンが一番いい。って。まさに深謀遠慮は浅慮に似たり、だ。



で、やっぱり年の暮にはじっくり読みたい茂吉の随筆。どうしようもなくこの人の文章には魔が潜んでいる。


ダンスフロアーに はなやかな光
僕をそっと 包むようなファンタジー


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