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9月下旬発売! 入江敦彦『英国ロックダウン100日日記』(本の雑誌社刊)大公開その①

まえがき

 3月20日、夜8時30分。ジョンソン英国首相は新型コロナウイルス感染症対策として英国の【封鎖】(ロックダウン)を発令しました。これによって3月23日より食料品や医療品などの買い物を含む、健康のための散歩が一日一度できるほかは一切の外出を一般市民は禁止されました。無届の集会はもちろん、この禁を破ると罰金の対象になりますし、警察官の指示に従わなければ直ちに逮捕されます。

 これは「日常を書く作家」である入江敦彦が観察した極めて非日常的な日々を記したもんです。すかしたルポルタージュではありません。あくまで個人的な記録です。また、英国全体の状態を俯瞰した偉そうなもんでもありません。また、そんな偉そうなもんを書けるような人がいまいるとも考えられません。
 能力の問題ではないんですよ。みんなコロナという巨大な象を撫でる群盲の一人です。

Lockdown Day 01 3月23日(月)  晴れ

 車はめっちゃ減りました。まるで週末の朝みたいです。けれど家族連れは暢気に散歩してるし(子供はいつもはいないお父さんが一緒なので嬉しそう)、マラソン人も平気で表通りを走ってます。
 この人たち、ほんとにどこにでも出現するな。「一匹見たらその30倍いる」といわれている〝あの虫〟みたい。
 TVのニュースで、ここ数日のゴーストタウンの如き街中の映像が映るたび、いつでも端っちょにちょろっとジョガーが映ってんのを発見して「この人らは健康のためやったら死んでもええんか?」と呆れますが、なんちゅうか健康のためていうより動揺を払拭するような気持ちがあるんやろなと思いました。

 わたしが担当の編集子に「封鎖中の日記やらはりませんか」と打診されてすぐに頷いたんも、この濡れ布団みたいな不安をかぶって精神的な風邪をひいたらあぶないと判断したからです。ロックダウン中にどんなご飯を食べてたか覗くだけでも面白がってくれる読者も(もともとのわたしの読者はとりわけ)いるやも知れぬという気もしましたし。

 そんなわけで封鎖1食めは超絶お気に入りのパン屋さん『Miel Bakery』のサワードゥ最後の一切れ。テイクアウトは強制閉鎖やないので開いてはんのかはらへんのかはわからんけど、どっちにせよいまは買いにいけへんので調べてません。たっぷりバタ塗って、これまた貴重な『Rosebud Preserves』のラズベリージャムをこんなときだからこそケチケチせずに奢っていただきました。
 飲みものは紅茶でも珈琲でもなくホットチョコレート。落ち込んだ気持ちには、やっぱり甘いもんが効きます。『Green and Black』のオーガニック。濃いい味が大変に結構です。わたしのファーストチョイスは『Charbonnel et Walker』ですが、これは近所には売っていないのでロックダウン終了までお預け……。

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 ああ美味しかったと喰い終えて、いつもやったら浮かぶはずもない「こんどは、いつ食べられんにゃろ」という感慨がふと胸に湧いたとき、ようやくトンでもない事態に自分らはいるんだとリアルに身の毛がよだちました。わたしたちは巨大すぎて正体のわからない怪物の目を盗んで生きていかねばならないんです。
 それもいつまで続くかわからないんです。

 いったいドーなるの? ドーなってしまうの? ドーはドーナツのドー? と馬鹿になってしまったような救いようのない気分。ああ、これが虚無感/無力感というやつか。こんなときは、ただただ祈るような気持ちだけれど、具体的に何を祈ればいいのかすら解らないのはしんどいことですね。
 たった1週間前の少々人通りはまばらとはいえ長閑(のどか)に平和だったロンドンを振り返れば、なにが起きても不思議じゃない。

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Lockdown Day 02 3月24日(火) まじピーカン

 ひたすら家に籠っていると気が滅入るばっかりなので近所にある住宅街のミニスーパーの定点観測もかねて散歩。やっぱり外に出るとほっとする。まさに「息がつける」感じ。
 近隣コミュニティの要として機能しているカフェ『But First, Coffee』の開店を知って大いに寿ぐ。オーナーと手に手を取ってぴょんこぴょんこ飛び上がりたい気持ちだけれどいまはできない。せめてハグしたかったが我慢。ともあれ居間の延長みたいに使わせてもらってるので顔が見られただけでも嬉しい。

 今回の封鎖のレギュレーションをチェックしたところ、珈琲は必需品ではないからカフェは開店できないけれど、テイクアウトするぶんには問題ないとわかって「ほな開かんわけにはいかんやろ」と暖簾を掲げることに決めたんだろうな、と。いっても対面販売。リスクも考えないわけではなかったろうに、有り難い。
 むろん2m以上の間隔をあけて珈琲がやり取りできるよう動線に気をつけてらっしゃいます。
 その足でカプチーノ飲み飲みミニスーパーへ。カフェ仲間に偶々出会い生きていることを喜びあう。イタリア人夫婦とアイリッシュ夫婦。どちらもわたしらより半回り、ひと回り上だが、このくらいになると同年代感覚。『BFC』の営業を教えるとみんな感激。やはりハグしあいたくてうずうずするが我慢我慢我慢。

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 6人が道端で、安全な適正社交間隔(ソーシャルディスタンス)をきっちりとって円うになって情報交換。どこの店にはナニがある、あっこはまだアレが買える。そこのソレは美味かった。面白いねえ。類友で喰いしん坊が集まってるのかもしれないけれど、こんなときでも出てくる話題は喰うことばっかり。まさに井戸端会議です。井戸端会議。いい言葉だ。使い方にもよるけど匿名掲示板より役に立つでしょう。

 晩御飯は自家製の鰯の干物。菠薐草(ほうれんそう)と蒟蒻(こんにゃく)とエリンギの白和え。冷蔵庫の奥地に発見した白菜のたいたん、に天かす散らしたん。しらすと胡桃(くるみ)の佃煮(いただきもん)。梅干し。白ごはん。みごとにいつもと変わらんメニューでございました。

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 今回のことがあってからちょこちょこ買い足した食材もありますが、いまんとこまだなんにも使っていません。ねえねえ、ひょっとしてロックダウンで食事に困っているのって普段から外食が多くて、家では冷凍食品とか缶詰とかレンチンとかできあいとかばっかりの人たちなんじゃないの?
 備えあれば憂いなし――というのは尤(もっと)も大嘘で、どちらかいうと芸は身を助く、じゃないでしょうか。意地汚いのもここまでくれば芸のうち、とか。ロックダウンにおいては食事が生活のとても大きな部分を占めますので、せいぜい芸を磨くことにいたしましょう。
  
 真夜中に電話。英国東北部の施設に住む義母が心臓麻痺で昏倒の報。現在は意識もあって命に別状はないとのことだけれど……。

Lockdown Day 03  3月25日(水) 悲しいほど青空

 ツレが発熱。コロナやったりするとこの日記も俄然ドラマチックなんでしょうけど実は昨年末から微熱が出たり引っ込んだりなのでした。きのうの晩のショックもあったかもしれません。今日はいちんち家に引っ込んどいてもらうことにしました。
 わたしは買わなければならないもんもないけれど、やっぱりお日様を浴びたくてちょっとだけ散歩。
 繋がれた犬を見て触りたくって悶絶。けれど犬ともソーシャルディスタンスを守りました。まさかとは思うけど間接的に感染(うつ)らんでもないからね。また、こんな時に限ってトラップのように犬があちこちに。しばらく犬の〝モフり〟もお預けか……と切なくなります。とぼとぼ珈琲と一緒に帰宅。

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 ツレは寝込むほどではまったくないので食事やお茶のたびに居間でお喋り。どうしても昔話が多くなります。が、さほどセンチメンタルに陥らないのは、もうお義母さんがアルツハイマーを患ってかなり長いからでしょう。この1年はツレの顔も判然としてなかったので……。覚悟をする期間は充分にありました。
 ちなみにボケが顕著になってからはわたしのこと、いないときは「息子のヨメ」と人に説明してらしたそうな(笑)。でも「アツヒコは男やで」とツレが言うと「知ってるわよ。そんなこと」と笑ってらしたとか。いるときはちゃんと「息子のパートナー」と認識しておられるようなんだけど。

 午後は免疫力アップを祈請してお薄を一服。冷凍庫に眠らせてあった、とっとおきのお菓子を起こして供とする。『廣尾 瓢月堂(ひろおひょうげつどう)』のその名も「六瓢息災(むびょうそくさい)」。いただいたとき、あまりに美味しくてパクパクいってしまって、これはヤバいと仕舞いこんだんだけど、これ以上ないタイミングを得てコールドスリープから目覚めてもらいました。
 ナッツの香ばしさと糖蜜のまろやかさ。生姜が効いてていかにもその名に相応しいお味。お抹茶にも居住まいを正すように寄り添ってくれました。

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 夜になってツレの熱がちょい上がりました。晩ごはんのときは食欲あったし、六瓢息災も戴いたし大丈夫だとは思うけれど、どうしても心配になります。わたしもくしゃみするたび咳するたびに「ひょっとして」と怯えてしまう。だって〝いざ〟となっても病院にいけないんですから。都市が封鎖されるというのは、そういうことなんですよね。
 もちろん緊急事態に陥ったら999*すれば救急車は来てくれる。そして受け入れたら看てくれます。しかし病院は感染のリスクが高い場所。おまけにマスクすら足りていないうえ人手不足もいいとこ。そして自分たちより重篤な患者が何人も順番を待っています。
 ――現実はもしかしたら案ずるよりも産むが易しなのかもしれないけれど、いまのわたしたちの英国の病院に対するイメージはそんな感じ。
 3日目にして気を抜くと泣きそうになります。

*英国では、999が警察や緊急通報のダイヤルナンバー。

Lockdown Day 04 3月26日(木) 小春空

 俳優のトム・ハンクスとイドリス・エルバ、志村けん、チャールズ皇太子。コロナウイルスが大流行するまでは、この4人が共通項で括られるなんて誰が想像したでしょう。まったくシュールな世の中です。
 わたしの知ってる範囲でも4名の知人が罹患してます。うちひとりは発病の3日前、ソーシャルディスタンスを順守しつつも、わりと近い距離でお互いにマスクせず話をしてるんで実はかなり戦々恐々。ツレの発熱に神経質になったんも、これが頭の隅に引っかかってるからです。不思議と恨む気持ちとかはないんですけどね。むしろ自分の軽率さが憎い。
 けど、おかげさまでツレの熱は下がりました。まだ微熱はあるんでセミ自己隔離。今日はもう、このあと熱も晩までは測らないようしよと決めました。あれです。素人料理の味見。不安があるからなんべんもなんべんも味見して、しまいには塩梅がわからなくなってしまうあの感覚。ありがちな失敗です。
 味見はね、肝心の勘所で一発ぱしっと決めるだけでないといけません。でもって微調整したら、それはもうよほどでないと確かめちゃダメ。

 こっちにはコーナーショップと呼ばれる、日本のコンビニ的役割を担う万屋(よろずや)があります。クオリティは比ぶべきもないし24時間営業でもない。おシャンティなデザートも売ってない。んですが、わたしはこれで充分だと思ってます。あるといいな、と羨ましいのは宅配便の集配サービスくらいかな。あと、トイレ拝借できるのはいいね!
 件のカフェの隣にあるトルコ人経営のそんな店に牛乳を買いに行ったら「うちはまだなんでもあるよ。ないのは小麦粉とパスタだけ」とのこと。パスタは解りやすいけど小麦粉かー。パンを自宅のオーブンで焼く人、増えたんだろうなー。

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 そういや近くのミニスーパーでは「お一人様一袋のみ」のパスタを見たっけと覗きに行ってみたら、まだまだ潤沢に在庫がありました。こんなことでもなかったら絶対に買うこともなかろうという長い長い丈のスパゲッティを購入。うちに冷凍したトマトソースがあるから、そのうち手抜きしたいときに茹でましょかね。ちょっと楽しみです。

 晩ごはんは買い置きしてあった野生の猪肉ソーセージを悪くならないうちにと焼きました。たいめいけんキャベツ(作り置き)、生クリームたっぷりのマッシュポテト(作り置き)、根セロリのコールスローサラダ(作り置き)という布陣。ツレの好物ばっかりなので、えらく食欲がありました。
 やっぱし「食べられるうちは大丈夫」って単純やけど真理やと思うんで眺めながらホッとしました。

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 あ、そういや『Maille Mustard』の粒マスタードが切れた。マッシュポテトに最後のひと匙を投入してしまいました。スーパーには当たり前に売ってるアイテムなんですけどね。どっかで手に入るかなー。こういう不自由は増えてきそうですね。

Lockdown Day 05 3月27日(金) またしても上天気

 自宅で自主的な自己隔離(self quarantine)してた友人のジョーが一人散歩できるまでに回復したとSNSに写真を載せていました。よかったよかった。身近に「治る」ことを証明してくれた人がいると本当にほっとします。
 おこもりは2週間。うち半分は真剣に死ぬかと思うほどの痛みに七転八倒の日々だったとか。コロナはきついよとは聞いていましたがかなりのものだったみたい。かわいそうに。しかし混ざっていたセルフィーは相変わらずハグリットを思い出させる髭もじゃの巨漢だったので、やつれたのかどうかは判りませんでした。それって得なのか損なのか。

 先に流行が始まっていたイタリアやスペインの情報ではお年寄りがかかりやすいということでしたが彼は30代後半。職場はロンドンのど真ん中。感染経路は不明。たまたまジョーの報告を読んだ直後に「髭伸ばしてると死ぬぞ。髭に菌つくからな」という呟きを見ていやーな気分になりました。
 こういう口調はこのツイ主の芸風なのでしょうが、わたしたちくらいのゲイはみんな「同性愛者はみんな死ぬぞ。やつらエイズだからな」という謂れのない差別をうけてきたもんで癇に障るんです。きっとこういう人はそういうこと考えもしないんでしょうが。
 封鎖が長引くほど、この手の流説は増えるんだろうなー。彼女がデマを流してるとは思わないけど、その理屈でいけば髪にも菌はつくので、わたしみたいなハゲはいいけど、みんな剃髪しなきゃだけどいいの? あなたも剃るの? つるピカハゲ丸? とPC画面に向かってツッコむワタクシ。
 近頃はどこの店に行ってもレジ前の床に適正距離を示す印がバビってあります。こういうのをきっちり守って、人と会話するときも注意を怠らねば髭剃る必要も尼さんになる必要もない気がしますけどね。医療の最前線にいる人なんかは別にして。

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 むろんリスクはリスクなんで、つるんつるんにした人としか付き合いませんというのはご勝手ですが。

 お昼はお蕎麦にしました。「年越しに食べてー」と京都の大親友が送ってくれた『松葉そば』。こういうとき乾麺は有り難いねー。みんなカップ麺なんか買ってる場合じゃない! 日本の乾麺はすごい! やはりツイッターで近ごろよく見る #日本スゴイ が本当にすごかったためしは滅多とありませんが乾麺のバラエティのクオリティにはこのハッシュタグをつけても憚りないかと存じます。

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 アルデンテに茹でて髭男たちの無事を祈りゴーティに海苔を散らしてみました。これも年末の貰いもんです。『東京吉兆』さんの蕎麦海苔。うわ。おいし。こういうちょっとした贅沢って上手に取り入れると実に気持ちをアゲてくれます。くだらないツイを忘れさせてくれる程度には効果ある。

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入江敦彦『英国ロックダウン100日日記』
(9月下旬発売/本の雑誌社刊)

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