不信
高校時代にお世話になっていた先生と、久々に話しをすることができた。彼が担当していたのは、倫理・政治経済である。
某SNS を通じて連絡があり、通話サービス・Skypeを使って話そうということに。改めて「便利な時代だな」と思いつつ、お互いに都合のいい日を出し合って、日程を決めた。
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彼のする授業は、その担当教科もあいまってか、とても時事的であった。現実の社会と黒板に書かれた内容が、断絶せずにリンクしている、という感覚を抱けた。
とはいえ、授業内容自体は、ぼんやりとしか覚えていない。記憶に残っているのは、授業の合間に話された雑談の数々である。
印象的だったのは、人は不信を貫けない、という話。どれだけ「俺は誰も信じない」とクールにきめたとしても、それでは安心して街に繰り出すことすらできなくなる。いつ車が交通ルールを無視して突っ込んでくるか分からない。人とすれ違いざまに、いきなり殴打されるかもしれない……大半の人はそんなことはしない。そう信じ合うことで、社会は成り立っている。
Skype会話当日、上記の雑談が記憶に残っていることを先生に話すと、「その話、いまでもしてるよ」と笑顔が返ってきた。なるほど、擦りにこすっている定番ネタだったわけだ。今の10代の学生さんたちも同じ話をきいている。そう考えると、何だか不思議な感じがする。
「ちょっと待って、せっかくだから見せよう」
先生は立ち上がり、画面外へ。何かを取りに行ったようだ。
「お待たせ。これが、その話のネタ元だよ」
そう言って示されたのは、『信頼の構造』という一冊の本だった。
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引用した箇所は、通話中、先生が読み上げてくれた文章である。これを肴に、色々な時事問題について議論ができそうなほど、示唆に富んだ指摘である。案の定、実際に話題は現今の政治状況に移っていった。
「政治家が国民の信頼を裏切るようなことをしていた。国民の側は怒り、政治家の活動を細かく制限する法律を求めるようになる。そうなれば、政治家はますます活動しずらくなる。自分で自分の首を絞めている、馬鹿だねえ」
画面上の先生は、おでこに「呆れ」という二字が浮かんで見えるほど、呆れ果てていた。「そうですねえ……ほんとに」と相槌を打つ私のおでこにも、「呆れ」の二字が浮かんで見えるだろうか。
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