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いざ鎌倉! 亀の遊歩の大町、材木座|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第19回は、三浦半島の北西部、鎌倉を歩きます。

ほんとうは行ってほしくないけど知ってほしい場所がある。とっておきの自分だけのお気に入りのところ

見どころいっぱいの鎌倉は三浦半島の人気地で、曜日にかかわらず鎌倉駅頭には人が多く小町通りは鎌倉一の繁華街になっている。

ただ2年目に入ったこの風土記で鎌倉を歩いたのは一度だけ、やはりオーバーツーリズムが気になる。(*1)

(*1)鎌倉市の人口約17万人に対して、年間約2,000万人(2017年)の観光客。京都市は人口約140万人に対して約5,000万人(2017年)。

鎌倉駅前 2023年

江戸時代も物見遊山の地で知られた鎌倉。(*2)そして中世鎌倉でいちばんにぎわう場所は何処だったのか?

(*2)『新編鎌倉志』(1685年)水戸光圀が編纂させ鎌倉名所を記述。

小町大路横の厄除けの八雲神社は祇園山ハイキングコースの入山口になる

小町があるなら大町もあるはずだ。小町通りのその古名は瀬戸小路(耕路)で、並行する若宮大路をはさんだ東側には小町大路があり、幕府の御家人らの武家屋敷町だった。この路を海に向かうと大町になりそこが都の物資集散・消費の中心地だったという。(*3)

(*3)『材木座郷土誌』(一般社団法人材木座自治連合会編 冬花社)

さらに海にくだり材木座へ。鎌倉はここから始まり亀が午睡ひるねをするようなセピアな海街にいまなっている。

和賀江島
初夏の材木座の裏道

駅前の若宮大路の島森書店(明治43年[1910])は文具売り場一体の横浜有隣堂本店に似た昭和な店内構造と空気を残していて、僕が通った高校生の頃と変わらない。

この裏手へ抜けると小町大路でいつも蛭子ひるこ神社に寄っている。そこは村社の寂れ感が良く、脇を流れる透きとおった滑川なめりかわ朝夷奈切通あさいなきりどおしの麓が水源で川音が心地よい。

蛭子神社裏を流れる滑川

通りの「珈琲井川」のアルプス風建物は往年の松竹大船撮影所の女優故井川邦子さん(*4)の店で、さきの喧騒から逃れられる奇跡のような喫茶店だ。

(*4)映画『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『麦秋』では原節子、淡島千景とのスリーショットで知られる。

珈琲井川。プリンも美味

小町大路は日蓮宗の名刹本覚寺(永享8年[1436])の前で川を横切り、ここが夷堂橋えびすどうばしで武家の街路から米店や酒屋などあり商家の道筋になる。

逗子からの大町大路と交差すると大町四ッ角だ。和菓子店「大くに」(昭和11年[1936])の並びの日進堂(昭和23年[1948])でカレーパンとロケットパンを買う。僕流の亀の町歩きには必携の糧食になっている。

魚町いおまち橋を渡ると鎌倉十橋のひとつ逆川さかさがわ橋になり、大町大路からが鎌倉時代の市井の中心街だった。

JR横須賀線の踏切を越えると脇道には石清水いわしみずの井戸があって、住宅地に囲まれた赤鳥居が由比ゆい若宮だ。石柱には鶴岡八幡宮と刻まれている。源頼朝建立のあの鶴岡八幡宮と若宮大路、それ以前に源氏の守神の京の石清水八幡宮を源頼義が勧進した始まりの場所(康平6年[1063])。源家の鎌倉幕府への野望揺籃の地だ。

由比若宮は鶴岡八幡宮のルーツだ

「大いなる道路を一筋だけつくるべく命じた。若宮大路である。」司馬遼太郎は頼朝の新都市計画に尾鰭おひれを付けないシンプルさをこう記した。(*5)頼朝には尾鰭のちまたの小町や大町はどう見えていたのだろう。

(*5)『三浦半島記 街道をゆく45』(司馬遼太郎 朝日新聞社)

べつの尾鰭の話をすれば海軍機関学校で英語教師していた芥川龍之介の旧宅はこの宮の脇にあって軍港横須賀に通っていた。横須賀線の開通(明治22年[1889])は昭和に向かって鎌倉や三浦半島を様変わりさせてゆく。

小町大路も材木座エリアに入ると鎌倉中心街唯一の銭湯「清水湯」(昭和30年[1955])や古民家のゲストハウス「亀時間」が営業中だ。材木座公会堂(大正7年[1918])、伝統のシラス漁のもんざ丸前田水産から、鎌倉野菜の青果店、角打ちの萬屋酒店。ここはインバウンドの波は弱く地元民の街並みがまだ残っている。豆腐川を越えると光明寺(寛元元年[1243])の大きな山門が迎えてくれた。(*6)

ゲストハウス亀時間
材木座、天照山蓮華院光明寺の山門

(*6) 浄土宗。開基は4代執権北条経時。修理工事中の大殿(本堂)は国重文。戦後間もなく開校した伝説の自主学校「鎌倉アカデミア」の記念碑や故高倉健さんの慰霊墓碑がある。

小町大路から材木座までは鎌倉新仏教の日蓮宗や浄土教系などの寺院が多く、材木座の氏神の五所ごしょ神社では鎌倉の摩訶不思議な異界を覗く気がした。観光客が多いとこうはいかない。

材木座海岸もとは砂丘や干潟で木材の集散地の「座」だった。そして明治以降は別荘・療養地にもなる。古地図を手に材木座の裏通りをたどると、G.Pモリソン(横浜の英国貿易商日露戦争で日本を支援)をはじめ、松方正義、正田貞一郎(上皇后美智子陛下祖父)、黒田清輝、竹山道雄、岡村昭彦(*7)などの別邸跡をさがした。材木座は彼らには漁民や商人と共生するユニークな保養地で仕事場だったが、戦後はマリンスポーツ映えの海浜地区にもなっている。

(*7)『岡村昭彦と死の思想』(高草木光一 岩波書店)。1960年代ロバート・キャパを継ぐ戦争写真家と讃えられた。別荘もちの海軍人家系で戦後公職追放の父に代わり浜で製塩し糊口をしのいだ。

材木座海岸はウィンドサーフィンを楽しむ人々が集まる
材木座海岸のワカメは早春の名物
行楽客がひいた材木座海岸

僕の遊歩の仕上げは、隣の小坪(逗子市)との境にある飯島崎だ。ここは初代将軍の頼朝の愛妾、亀の前が潜んだ家臣邸があり、妻政子の嫉妬から逃れとり壊されたと伝わる場所だ。(*8)

(*8)『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館)

頼朝の愛妾がいたという飯島

亀の前のその後の命運を想いつつ、路地を抜けると江の島、伊豆、富士山が見えた。石塊がゴロゴロ広がる磯が和賀江嶋わかえのしま、わかえじまだった。(*9)

(*9)日本最古の築港建造物(1234年)。国指定史跡。『御成敗式目』の3代執権北条泰時が朝夷奈切通とともに、遠浅の材木座海岸沖に都の物産集積や宋など対外交易の港として建設。

和賀江島の磯と江の島を望む、由比ヶ浜

ときに大潮で海底に沈んでいた無数の丸石が露出する様は圧巻だ。季節になれば潮干狩りもできるが、漁師はここを飯島港と呼びいまも石のはざまを舟溜りにしている。伊豆などから運ばれた築港のための石材は波浪にさらされて玉石となり、いつの時代の沈没船かその積荷の陶器片がみつかるという。

材木座を冒頭にした倉橋由美子の小説『暗い旅』(*10)ではここで中国竜泉窯の青磁片をさがすシーンがあり、いちど似たものを拾ったことがある。ただその真贋はどうでも良くて、材木座のラグーン(砂洲)やこの玉石の磯で午後の亀のように過ごせることがなによりだ。

(*10)『暗い旅』(河出書房新社)カフカに影響をうけ、大江健三郎、開高健、石原慎太郎らと新世代作家として脚光をあびていた。

和賀江島(和賀江嶋)、飯島沖合の大崎は地元サーファーのベストビーチだとずいぶん前に湘南ビーチFMのパーソナリティーのジョージ・カックルさんから聞いたことがある。複雑な波も立ちそうだ。それは交易船には難所だったかもしれないが。

和賀江島へ古都から吹くオフショア。(*11)材木座は鎌倉を追想するにはいい海街になっている。

(*11)陸から吹く風サーフィンに適した波ができる。海からの風はオンショア。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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