『日本書紀』が記す古代日本のパンデミック――オオモノヌシを祀る大神神社と疫病の深い関係
文・ウェッジ書籍編集室
三輪山の神オオモノヌシ伝承を綴る『日本書紀』
奈良盆地の東辺は青々とした山並みが続いていますが、その東南の一角に、ひときわ秀麗な円錐型の山容が浮かび上がります。古くから神霊の鎮まる聖なる山として信仰されてきた三輪山です。標高は467メートルほどですが、その山肌は今も鬱蒼とした森に覆われ、幾多の神話や伝説を生んできた霊山にふさわしい神秘性を漂わせています。
その西麓に鎮座するのが大神神社です。大物主神を祭神としていますが、古来、本殿をもたず、オオモノヌシが鎮まる三輪山そのものがご神体とされてきました。拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して神体山を拝するというスタイルは、神社本来のありようを示しているともいわれ、神社のなかでもとくに古い歴史をもつ古社とされています。
そんな三輪山と大神神社、そしてオオモノヌシをめぐる伝承の最古層を書きとどめているのが、『日本書紀』です。『日本書紀』によると、第10代崇神天皇は磯城瑞籬宮を都としました。その場所は三輪山西麓の地、つまり大神神社の周辺と推定されています。西麓の巻向川と初瀬川に挟まれた三角地帯が古くから「水垣郷」と呼ばれていた、というのが根拠になっています。
崇神天皇の治世で疫病が蔓延し大混乱に陥った
『日本書紀』には、崇神天皇の時代に、疫病が国中に流行して、多くの民が亡くなり、混乱に陥ったことが記されています。これは感染症流行(パンデミック)に関する日本最初の記録でもあります。百姓は流離し、なかには背く者もあり、その勢いは天皇の徳をもってしても収まりませんでした。
そこで天皇は神意を伺うため、占いを行いました。すると、天皇の大おばにあたる倭迹迹日百襲姫命が神憑りになり、「私をよく祀れば天下は平穏になるだろう」と神託を告げました。
さらに天皇が「あなたはいずれの神か」と尋ねると、「私は倭(大和)国のなかにいる神で、大物主神という」という答えがかえってきました。天皇は神託にしがたってオオモノヌシを祀りましたが、一向に効験はあらわれませんでした。そこで天皇はさらなる神示を得ようと必死に祈りました。すると夢にオオモノヌシが現れ、次のように天皇に告げました。
「我が子、大田田根子に私を祀らせるならば、たちどころに平穏になるだろう」
これをうけて、天皇が早速、大田田根子なる人物を探させたところ、茅渟県の陶邑で見つけ出され、召し出されました。「茅渟県の陶邑」は現在の大阪府堺市を中心とした泉北丘陵の一帯にあたり、その地名は、数多くの窯がつくられて陶器(須恵器)の製作で栄えたことにちなんでいます。
大田田根子がオオモノヌシを祀ると疫病は終息した
天皇は大田田根子に出自を尋ねると、彼は「父は大物主神で、母は陶津耳の娘の活玉依媛です」と答えました。大田田根子はたしかにオオモノヌシの「我が子」であったのです。
そして天皇は大田田根子にオオモノヌシを祀らせ、さらに八十万《やそよろず》の神々も祀り、神社の制度を整え定めると、ようやく疫病が途絶えて国内は平穏となり、五穀豊穣となって人民は豊かになりました。以後、大田田根子は大神の祭祀を司ることになり、三輪氏・大神氏の始祖となりました。
以上が『日本書紀』にみえる三輪山とオオモノヌシの説話のあらましですが、このように日本最古の疫病蔓延(パンデミック)の記述にとどまらず、三輪山をご神体としてオオモノヌシを祀る大神神社の縁起譚でもあり、大神神社の神官を世襲した三輪氏の祖先伝承にもなっているのです。
――大神神社については、『日本書紀に秘められた古社寺の謎』(ウェッジ刊)の中で三輪山や周辺の遺跡群とともに詳しく触れています。本書では、このほか伊勢神宮や出雲大社をはじめ、『日本書紀』の舞台となった30の古社寺を謎解き風に紹介。ただいまネット書店で予約受付中です。
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