瀬戸内海に、たゆたう音|文=北阪昌人
音をテーマに、史実をベースとして歴史的、運命的な一瞬をひもといていく短編小説。第2回は、正月休みに広島県宮島を訪ねた女性が、作曲家・宮城道雄の筝曲「春の海」に“隠された音”を水面の陽光に見出す「瀬戸内海に、たゆたう音」です。(ひととき2021年1月号「あの日の音」より)
「加々美さん、君、お琴が弾けるって聞いたんだけど、ほんとう?」
社長にそう訊かれたのは、年末の慌ただしい午後だった。伝票処理に追われていたとき、突然、社長室に呼ばれたのだ。
「年明けのお得意先との新年会ね、いちおう、ソーシャルディスタンスを保ち、感染対策を万全にしながら、開催の予定になっていてねえ」
そこで、社長はお茶をすすり、
「先方の支店長さんがねえ、なんでも、お琴が好きだそうで……でね、まあ、無理にとは言わないが、その、あれだ、新年会でお琴を弾いてもらうわけにはいかないかな……」
と申し訳なさそうに言った。
「すみません、人様にお聞かせできるレベルではなく……」
丁重に断った。
私、加々美祥子は、家ごもりの中、リモートでお琴を習った。学生時代やっていたのだけれど中途半端に終わっていたので、もう一度ちゃんと弾けるようになりたかった。
我が社は決して順風満帆な経営状態ではない。経理を担当しているのでわかる。会社にはずいぶんお世話になってきたから、なんとか恩返しはしたい。でも、人前でお琴を弾くなんて……。
正月休み。女友だちと、広島県の宮島に旅した。旅に出られる喜びが体中を巡る。新しい年を迎えるにあたり、運気を上げられそうな場所を選んだ。パワースポットと呼ばれる弥山に登り、獅子岩展望台から瀬戸内海を見下ろす。
そういえば……作曲家、宮城道雄は、瀬戸内海を巡ったときの記憶をもとに、お琴の名曲「春の海」を作ったという。彼は8歳のとき視力を失い、瀬戸内の、のどかな波音や鳥の声、櫓を漕ぐひとの舟歌を頼りにあの曲を作曲したと彼の随筆に書いてあった。
私は、目を閉じる。宮城道雄が聴いた音を探す。波の音はしない。鳥の声、木々のざわめき。目を開けると、瀬戸内の波間に、柔らかな陽射しがキラキラと光って見えた。
もしかしたら、「春の海」には、水面にたゆたうこのキラキラも入っているのではないか、宮城道雄は、このキラキラを音として聴いたのではないか……。そんな気がしてきた。キラキラが入っているから、この曲がお正月の定番になったのかもしれない。そう思ったら、急に、「春の海」が演奏したくなってきた。
休み明けの新年会。私は、祖母から譲り受けた着物を着て、お琴の前に座った。緊張の一瞬。「春の海」を弾いた。つま弾く弦の響きに、瀬戸内の風景が蘇る。
獅子岩展望台から見た、おだやかな海。かすかな風に髪が揺れ、陽の光がやってくる。水面で踊る、陽の光。
「ああ、やっぱり、そうだ。宮城道雄は、光の移ろいを、音にしたんだ」
宮城道雄のキラキラが、私のキラキラと重なり、会場に響いた。
演奏が終わると、拍手の音がさざ波のように、私を、優しく包んだ。
文・絵=北阪昌人
北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。
※史実をもとにしたフィクションです。
出典:ひととき2021年1月号