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明治大正の自然主義の作家・正宗白鳥と冬の朝の五条坂|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京の魅力を伝える連載「偉人たちの見た京都」。第33回は現実をありのままに表現しようとする自然主義小説の作家・正宗白鳥まさむねはくちょうです。新聞記者であり、小説家としても活動し始めた彼が明治40年に発表した随筆「京都の朝」をご紹介します。

正宗白鳥は、明治から大正にかけて、自然主義小説の第一線で活躍した作家です。小説だけでなく、戯曲や文芸評論の分野でも才能を発揮。芸術院会員、文化勲章受章者にも選ばれ、晩年は文壇の重鎮として、ご意見番的な位置を占めていました。文芸評論家の山本健吉によれば、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声に並ぶ「自然主義の四大家」の一人に挙げられています。

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像

白鳥は1879(明治12)年3月、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれました。実家の正宗家は二百数十年続いた地元の旧家で、白鳥はその長男として育ちます。本名は忠夫。村で一番の裕福な家系であり、和歌、俳諧、書画をたしなむ家風でした。

1892年、白鳥は岡山藩の藩校だった閑谷学校の流れをくむ閑谷黌しずたにこうに入学。在学中にキリスト教の教えや明治の新文学の潮流に触れる機会を得て、そのことが白鳥の人生に大きな意味を持つようになります。ちなみに、現在は国宝に指定されている旧閑谷学校講堂は、白鳥の在学時代も同じ場所にありました。

その4年後、17歳になった白鳥はキリスト教と英語を学ぶために上京。早稲田大学の前身である東京専門学校英語専修科に入学。さらに史学科、文学科ヘと進み、卒業後は東京専門学校付属の出版部に就職します。この頃から、同級生だった近松秋江(出身地が同県同郡)らと、読売新聞で文学、芸術批評を発表するようになります。

1903年6月、白鳥は読売新聞社に記者として入社し、美術、文芸、演劇、教育等の記事を担当。精力的に執筆活動を行なうようになります。翌年、東京専門学校の先輩で文芸雑誌「新小説」の編集主任だった後藤宙外ちゅうがいの勧めで、初めての小説「寂莫」を発表。記者と並行して、小説家としても歩み始めました。

旅の思い出を綴った「京都の朝」

そんな時代の1907年(明治40)年2月3日の読売新聞に、白鳥は一篇の随筆を掲載します。それが今回紹介する、京都の旅の思い出を記した「京都の朝」という作品です。

私は今神戸行の列車に午前六時に京都駅でおろされた。卸されたというと語弊があるかも知らんが、別に悪事をはたらいて引擦ひきずり卸された訳ではない。とにかく京都に下車するには、この列車では、この時間より他にないので、まだ夜明けには一時間もあろうというすこぶる嫌な時間に下車すべく余儀なくされたのである。

列車中では、陽気の暖かいのに、かてて加えてスチームヒーターで六十度*くらいの温度を保っているので、やや暖かすぎるくらいで、少しのぼせ気味のところを、ここに下車して冷たい朝風に吹かれるから気持ちは非常にい。振返ると停車場すてーしょんの建物で朝月の光を浴びて真黒い輪廓を作ってところどころに電燈が蒼白い光を放っている。(略)

*華氏温度。華氏で60度は摂氏で約15.5度。

明治40年といえば、奇しくも夏目漱石が小品「京に着ける夕」を発表した年。3月に東京朝日新聞社に入社したばかりの漱石は、3月末から4月初旬まで京都に滞在していました。年齢こそ漱石が12歳年上ですが、文学史に名を残した二人の作家が数カ月の差で京都の旅の印象を書き残していたわけです。

京都の街は頗る狭い。家並も昔そのままでいわく窓を縦にしたようなのが家ごとに付いている。昔そのままだなどというと僕がはなはだ老人らしくなるが、家の構造や古さから推断しただけの話だ。でここは家は昔そのままで、表面おもてだけを明治式にしたばかりのように見受ける。はなはだ失礼ではあるが、京都の実業の振わないのや、広くいわば、京都の文明がこれをもって推されはすまいかとも考えた。

曰窓とは、真ん中に一本の横木を入れた窓のこと。見た感じが「曰」の字の形に似ていることから、このように呼ばれています。武家屋敷の道路に面した窓に用いられます。その曰窓を縦にしたようなものとは、今日も京都の路地に見られる格子窓のことを指しているのでしょうか。

白鳥は、京都の街の印象を「すこぶる狭い」と書いています。片や漱石は、「京に着ける夕」でひたすら「淋しい」「寒い」と記していますが、彼が京都駅に到着したのは午後7時半頃。もうすっかり日が暮れていました。一方、白鳥が京都に降り立ったのは早朝の午前6時。冷たい朝風はむしろ心地よく感じたようです。

町巾まちはば狭隘きょうあいなことから、ここの荷車の細長いのに気がついた。適至生存というのも異なものだが、せんずるに*町巾に適した車が行われているのは事実であろう。人力車じんりきのカタンカタンと音のするのと、荷車のコトンコトンが好一対の響だ。

*つきつめて考えてみるに。

何が鳴るのかと注視すると荷車のは心棒*のピンが車輪が回転するたびに上下する音であった。これを視るついでに軸に鉄の金輪をめたのと真鍮のとあったのを見た。これは馬の荷鞍にぐらの骨に嵌めた金物に鉄と真鍮との別がある格だなと考えた。

*車輪のように回転する物の中心となる棒。回転軸。

この時代の物流は荷車、人の移動は人力車が主流でした。狭い京都の街路を、早朝から荷車や人力車も走り回っていたようです。白鳥は観察を続けます。

京都駅~五条大橋

こんなことを考えながら五条橋の畔へ出た。ここには果物屋の露店が二軒あって、いずれも灯を点して寒そうに番をしていた。見渡すと東山はまだ真実布団着て寝ているようで、ほのかに丸う見えている*。鴨川の川霧で対岸の家や電柱、枯柳かれやなぎただもう一色だ。

*江戸時代、松尾芭蕉の高弟・服部嵐雪が俳句「ふとんきて 寝たる姿や 東山」で、東山連峰のなだらかな山の形を布団をかぶって寝ているようと詠んだとされている。

京都駅から歩いて、白鳥は鴨川にかかる五条大橋にやってきました。まだ夜が明けていないようで、露店は灯を点しており、対岸の東山は黒々とした山影がほのかに見えるだけです。川霧が立ちこめ、静かな朝の気配に満ちています。

現在の五条大橋は国道1号線が走る大動脈で、早朝といえども車の通行は多く、白鳥が体感したような静けさを感じることは難しくなりました。明治40年から118年という時間の経過の重さを感じさせます。

五条大橋からの眺め

清水焼発祥の地・五条坂を歩く

橋を渡る。だらだら上って両側に陶器店のたくさんあるところを通ると、子を負うた裏若い婦人が、街燈の掃除をしていた。恐らくは夫なる点燈夫が病気ででもあるのであろうとそぞろに憐れを感じた。

五条大橋を渡ると道は上り坂になります。このあたりは五条坂と呼ばれ、清水焼の発祥の地であり、昔から陶工が多く住んでいました。そのため、白鳥の歩いた時代から今日まで、陶器を商う店が道沿いにいくつも軒を連ねています。坂の途中にある若宮八幡宮は「陶器神社」とも呼ばれ、毎年8月7日から10日までの4日間、神社周辺で五条若宮陶器祭が開かれ多くの人でにぎわいます。

五条坂の陶器店「陶点睛かわさき
陶器神社とも呼ばれる若宮八幡宮社

いよいよ上ると大谷御本廟と石に刻んであるところに出た。霜を置いた石橋の上から下を見下ろすと、枯蓮の乱れた池の薄氷に朝月の影を朦朧と宿している。その様が何となく夢でも見ているかのような感じがした。これから石段を上ると、僧であろう角袖の円頂*の人が、敷き詰めた石の上の落ち葉を拾うていた。これから清水へと思うたが、また町の朝を見なければと引き返した。(略)

*髪を剃った頭、坊主頭。

大谷本廟の石灯籠

五条坂を上ると、突き当たりの正面には大谷本廟おおたにほんびょうがあります。大谷本廟は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の廟所(墓所)です。もともとは知恩院山門の北にある崇泰院の裏庭にありましたが、1603(慶長8)年に江戸幕府の命により、この地に移されました。

小さな池に架かった石橋を渡ると、江戸時代の1710(宝永7)年に建立された総門があり、その奥には仏殿や廟所の拝殿である明著堂めいちょどう、親鸞聖人の遺骨を納めた祖檀などがあります。

大谷本廟の総門

清水寺の音羽の滝で

僕は今清水寺へ来ているのである。京都見物のお客を案内方々乗せて曳いて歩くくるまにも逢うた。七八人の田舎者を引率して説明して歩くのにも逢うた。清水でちょっと驚いたのは、この寒空に音羽おとわの滝で水を浴びていたものがあったのだ。いずれは迷信からであろうが困りものだ。(略)

音羽の滝は、清水寺の奥の院の崖下にある、三本のかけいから流れ落ちる細い滝です。清水寺の創建以前からあったとされ、一度として涸れたことがないといいます。流れ落ちる清水を柄杓で汲み、学問、健康、縁結びなどの諸願成就を祈る場所として人気がありますが、古くは修験道の滝行の場だったそうです。

いくら京都の街が活動しておらぬというても、閑寂な朝はすでに去って、それぞれ動作はたらきの時に向かっているのである。仏蘭西の尼の被り物のような、手拭てぬぐいの被り方をした小原女おはらめの通るのを見ると、ここまで出てくる間の野原の露にも濡れたであろう脚絆もはや乾いているではないか。もう朝ではない。

白鳥は京都旅行の翌年、1908年に発表した「何処へ」で小説家としての地位を確立し、1910年には読売新聞社も退社し、文筆一本の生活に入ります。以後、『泥人形』『入江のほとり』『牛部屋の臭ひ』『生まざりしならば』などの小説を次々に刊行。また『人生の幸福』『安土の春』などの戯曲集も上梓し、文壇の中心で活躍しました。
 
昭和に入ってからは執筆の中心を評論に移し、特に1941年に刊行した『作家論』は多くの版を重ねました。戦後は島崎藤村に続き、日本ペンクラブの2代目会長を務めるなど存在感を示しましたが、1962年に膵臓がんによる衰弱のため83歳で亡くなりました。墓所は府中市の多磨霊園にあります。

出典:正宗白鳥「京都の朝」『正宗白鳥全集 第十巻』(新潮社版)

文・写真=藤岡比左志

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