トプカプ宮殿宝物秘話:トルコ共和国建国100周年に寄せて|イスタンブル便り
今年2023年10月29日、まもなくトルコ共和国は建国100周年を迎える。100年前のこの日、アンカラのトルコ大国民議会は「共和国」の成立を宣言した。それとともに、法律を制定し、これを建国の日と定めた。
晴れがましいこの日は、600年以上続いたオスマン帝国に最後のとどめが刺された日でもある。トプカプ宮殿と、そこに安置された宝物は、その交代劇で人知れぬ、しかし大きな役割を演じた。あまり言及されることがないので、そのことを、この機会に書いておこうと思う。
* * *
「来週の授業は、トプカプ宮殿でしましょうか」。
10月、トルコでは新学期。概要を紹介する最初の授業で、思わず口をついて出た。
今学期は大学院で「極東美術」の講座を開講した。今ふうに言えば、「アジア美術史」だ。十数年前、イスタンブル工科大学大学院で講義を担当することになった時、トルコ語で「極東」、直訳するなら、“遠い東”という言い回しが広範に使われているのが気になって、講座名として、あえてつけた。「極東」とは何か、「アジア」とは何か、「東洋/オリエント」とは何か。
そのようなことを、学生と一緒に考えるきっかけになればと思い、現在でも、最初の授業で必ず議論することにしている。
ご存知だろうか。トプカプ宮殿には、10万点を超える中国陶磁のコレクションがある。世界に類のない最大、特A級のクオリティ を誇る。
このコレクションのすごいところは、それだけの数の中国陶磁がどのように宮殿に入ってきたか、文書で全てドキュメントされ、追跡できる点である。1492年、ルネサンスのパトロンとして有名なフィレンツェのロレンツォ・ディ・メディチは、中国陶磁を51点持っていたという。同時代のオスマン帝国スルタン、ベヤズィット1世が持っていたのは、わずか9点だった。それが、1517年、セリム一世の率いるオスマン帝国がペルシャを攻め、マムルーク朝を滅ぼし、エジプトとシリアを領有した際に、64点に増えた。
当時、中国陶磁の所蔵は、世界の覇権のバロメーターでもあった。
このコレクションの“すごさ”は、トルコでも一般にはあまり知られていない。ところが、その陶磁器の展示室である宮殿の台所は、長らく修復中だった。それがこの5月に、ハレムの非公開だった部分とともに、再公開された。これを使わない手はない。
トルコの学生にとって、中国美術や日本美術を“遠くにあるもの”として勉強する前に、身近にあるこの中国陶磁(700点ほどだが、日本陶磁もある)から始めよう。そういう思いもあった。
朝9時の開館を目指して、学生と待ち合わせた。大学院だから、少人数である。
宮殿の入り口「挨拶の門」を通り過ぎたところで、門の装飾的な庇を見上げながらバライダが言った。彼は、インダストリアル・デザイン学科の修士課程の学生だ。
「そういえば……、こうやって、意識してトプカプ宮殿に来るのは、初めてです」。
「最後に来たのはいつ?」
「多分、小学校の遠足で」。
チャナッカレ生まれの彼は、イスタンブルに住んで10年になるが、トプカプ宮殿に来てみようと、思いもしなかったそうだ。
「わたしもそう」。
イスタンブルっ子のぺリンも言った。
旧市街は、旅行者だらけだ。混雑するので出かける気にならないのだという。友達と出かけるなら、近所のカフェやバーの方がいい。たしかに、 コロナ後にわかに戻った昨今のイスタンブルのオーバーツーリズムの様子を見ると、その気持ちもわかる。
* * *
ボスフォラス海峡沿いに建つ西洋式のドルマバフチェ宮殿。19世紀半ば、近代化宣言タンズィマートとともに、オスマン帝国の政治の中枢は、新たに建てられたこの宮殿に移った。
そのあとトプカプ宮殿は、どうなったのか? このふたつの宮殿は、さながらコインの裏と表である。見捨てられた、というのはちがう。美術館化、とでもいえるだろうか。
すべての権力機能がドルマバフチェ宮殿に集中した一方で、有名なスプーン売りのダイアモンド、エメラルドの宝剣などの宝石や貴重な写本、コーラン、中国陶磁などの宝物は、トプカプ宮殿にとどまり続けた。イスラームの盟主 カリフ位の根拠となる聖遺物も同様である。
折しも、トプカプ宮殿の外庭にビザンチン時代のアヤ・イリーニ聖堂を転用した軍事博物館、ミュゼ・イ・ヒュマーユーン(帝室博物館、現イスタンブル考古学博物館)、続いて旧ヒッポドロームに面した建物(現マルマラ大学総長棟)に古代服装博物館、イブラヒム・パシャの宮殿にイスラーム財団博物館(現トルコ・イスラーム博物館)が設立され、トプカプ宮殿を取り巻く旧市街地区が実際に博物館として再定義されつつある時代だった。
トプカプ宮殿は、博物館として公開されたわけではないが、19世紀半ばから外国からの貴賓に特別に観覧を許される特権的なアトラクションとなっていた。なかでもスルタンの宝物庫に鎮座する宝物は、訪問の目玉である。その様子は、1880年代にすでに宮廷写真家アブドゥッラー兄弟によって撮影され、1893年シカゴ万博の際にアブドゥルハミット2世アルバムとして全世界に紹介された。
トプカプ宮殿は、じつのところ帝国の精神的な拠りどころであり続けた。スルタンの居城はドルマバフチェへ、その後ユルドゥズへ移ったとはいえ、いつの時も、最も重要な聖遺物であるフルカ・イ・シェリフ(聖衣)、ムハンマドの旗と宝物の保管所だった。即位の儀式は、350年以上続く伝統に則って、トプカプ宮殿幸福の門に黄金の玉座を設置して行われた。毎年断食月には必ずスルタンは一家で聖遺物への参拝を行い、断食明けの食事(イフタール)も、ここで行われた。
言いかたを変えるならば、「近代化」された西洋式宮殿ではさばききれない伝統に立ち返る場所が、トプカプ宮殿だった、ということだろうか。
* * *
オスマン帝国の崩壊は、緩やかにはじまった。最初は経済の破綻である。対外借款、そこから、オスマン債務管理局による経済的指導、という名の、介入。中国やインド、東南アジア、ほとんどの欧米列強の植民地が経験したのと同じ筋書きが始まる。
オスマン帝国がインドと異なるのは、一国の支配の範囲に収まりきれなかった点だろう。アラビアのロレンスに代表されるような、帝国内に居住するさまざまな民族感情の操作、それが高まった独立運動。そして第一次世界大戦での敗北。イスタンブルは、ボスフォラス海峡の通行、オスマン政府機関、鉄道、通信を制した英仏伊連合軍の統治下に置かれた。わたしがしばしば“帝国的”と呼ぶ、さまざまな民族、宗教、言語が入り混じり、混在する状況が、いわゆる近代的な“国民国家”に収斂される過程である。
第一次大戦後の1918年から22年までの間、オスマン帝国には、三つの政府が並立していた。英仏伊の連合占領政府、即位直後のメフメット六世を冠するオスマン政府、そして、アンカラの暫定政府。
その三つ巴のなかで、トプカプ宮殿に安置される宝物は、それぞれにとって気がかりの種だった。
第一次大戦中、宝物は大事を避けて、コンヤへ退避させられていた。だが占領統治下のイスタンブルで、この遺産にもしものことがあったら。後のアタチュルク(トルコ建国の父) ことムスタファ・ケマル率いるアンカラの暫定政権は、「コンスタンチノープル」を虎視眈々と狙うギリシャの動向に気が気でなかった。
連合占領政府は、「軒を借りて母屋を乗っ取る」方式で、じわじわとトプカプ宮殿に侵入して来た。初めは映画撮影のロケ地として、次に考古学調査の対象地として、そして、馬の訓練用馬場として使用したい、という理由で、宮殿外庭ギュルハーネ(薔薇園)へ。その手口は、「文化」の名を騙った、極めて繊細で巧妙なものだった。連合占領政府は、宮殿外庭に点在する帝室博物館、軍事博物館のガイドブックをフランス語とオスマンル語の二ヶ国語で出版した。文化紹介の名の下に、これらの文化遺産がもはや「彼らのもの」ではなく、「自分たちのもの」であるという、言外の宣言だった。凡人が容易に足を踏み入れることのできなかった聖域とも言える宮殿の敷地は、「一般公開」の名の下に、土足で踏み入れられるままになった。宮殿の持つ象徴的な意味を、まず失わせ、その本質的な価値をやがて失わせる、植民地主義の冷徹な手法だった。
1922年8月2日、ウルグンにいたムスタファ・ケマルは、アンカラ政府司令官の地位にあったラウフ・ベイにあてて、次のような手紙を書いた。トプカプ宮殿と付属の各博物館、イスラーム財団博物館にある最も貴重な宝物を、アンカラに移送するようイスタンブルの(オスマン)政府へ要請するべきである。
翌日、アンカラの大国民議会は、これを受けて、トプカプ宮殿の宝物を、その管理従事者とともにアンカラへ移送する宣言の草案を起草する。もしもギリシャがイスタンブルへ侵攻し、占領されたら、宝物は国外へ流出の恐れがある。そうなれば、その責任はあなた方の肩にかかっている。
だが、イスタンブルのオスマン政府には、それに応える大胆さに欠けていた。
独立戦争の戦いに運良く勝利を重ね、アンカラ政府はヨーロッパの連合軍(正確には、英仏伊日希ルーマニア、ユーゴスラビア)との平和条約に調印するべく、ローザンヌへの召喚を受けた。ムスタファ・ケマルはこの絶好の機会を逃さなかった。翌日の1922年11月1日、アンカラの大国民議会はカリフ位とスルタン位を分け、後者を廃する、という法律を成立させる。つまりオスマン帝国歴代スルタンの歴史は、ここで終わった。ムスタファ・ケマルはただちに警備隊を差し向け、メフメット6世もしくはイギリス軍による宝物の国外散失を防がせたという。メフメット6世は直後に、国外へ亡命した。
同年11月24日、スルタン位なしのカリフ位のみにアブドゥルメジット・エフェンディが即位する。この儀式はトプカプ宮殿、幸福の門で行われた。そして翌1923年1月4日、トルコ大国民議会は、帝室博物館、トプカプ宮殿宝物庫、そしてイスラーム財団博物館の最も貴重な宝物をアナトリアへ移送する命令を発令した。
ある晩のこと、宮殿岬に船が横付けにされた。聖遺物を含む103箱が運び入れられた。マルマラ海岸のイズミットまで船で、そこから鉄道でアンカラまで。第一便に続き、第二便60箱、第三便209箱という規模の宝物が、ジェナビー・アフメット・パシャ・ジャーミイに安置された。16世紀の宮廷建築家ミーマール・シナンによるアンカラで唯一のモスクである。
冒険活劇さながらのこの宝物の大移動に際して、最後のカリフとなったアブドゥルメジット・エフェンディは、当然ながら、聖遺物が自らの所有にかかることを主張した。国外へ亡命したメフメット6世を批判し、トルコ独立戦争を支持したアブドゥルメジット・エフェンディだったが、カリフの存在意義となる聖遺物に関しては、アンカラ政府の命令には不服だった。すくなくとも、聖衣とムハンマドの旗だけは、手元に置いておきたい、と。だが、この主張は、聖遺物および宝物は「トルコの国家に属する」として、却下された。おそらくここが、イスラームの盟主としてのオスマン帝国の意義を失わせ、息の根を決定的に止めた、正念場だった。のちに、トルコ大国民議会の決議により、オスマン帝室の動産不動産含む全ての財産は、正式にトルコの国有財産とされた。
1924年4月3日、トプカプ宮殿は、「トプカプ宮殿博物館」として古物博物館局(のちに文化省博物館局)管轄となる。この日をもって、トプカプ宮殿は、「宮殿」としての機能を正式に終えた。
歴史の表に現れた経緯は、以上である。だが、宝物管理の実際を見ると、別のオスマン帝国滅亡・トルコ共和国建国の物語が浮かび上がる。宝物に携わる「人」は、変わらなかったのである。博物館は、そっくりそのまま宮廷の宝物係を雇用した。オスマン帝国時代に宮廷で宝物の管理に従事する職にあった同じ人々が、博物館になっても同じ仕事をし続けた。 帝国時代に宝物係長だったレフィク・ベイは、1924年以降、宝物庫長となり、のちに博物館長となった。別のトプカプ宮殿博物館長タフシン・オズによれば、アンカラから宝物が宮殿に戻ってきた後も、百人を超える宝物係が、オスマン帝国時代と同じ宮廷作法と責任感で宝物を維持し続けた。管理人達は以前と同様、宮殿に住み続けていたという。
激動の時代に政治を動かすムスタファ・ケマルのような建国の英雄がいた一方で、時代が変わり、体制が変わっても、連綿と、脈々と自分の仕事をし続けた百人余りの名もなき宝物係がいた。悠長、にも見えるその淡々とした忠実さも、トルコ建国を支えた要素だと、ほんのひととき佇んで思う。そのような冒険を経て今、目の前のショーケースの中の宝物と巡り会えることは、稀有な奇跡にちがいない。
トプカプ宮殿の庭の、樹齢数百年の鈴懸の木の下に 腰を下ろして、学生達とそんな話をしながら、100年の歴史を思った。
建国100周年、おめでとうございます。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
▼この連載のバックナンバーを見る