「落語家に欠かせない無頼の心を育ててもらった時間でした」五街道雲助(落語家)|わたしの20代
20歳で大学を辞め金原亭馬生に弟子入りしたので、20代は師匠の7番目の弟子・金原亭駒七として始まったことになります。
実家はてんぷら屋と寿司屋を営んでいました。あたしが大学の商学部に入ったことを親父は「いい跡取りになる」と喜んでましたが、実のところ授業にはほとんど出ていない。学生運動のバリケードだらけでまともに授業はないし、出席の返事だけして教室の下の窓から抜け出し、雀荘や新宿末廣亭に直行です。それでも落語研究会だけはまじめにやってました。落研は体育会系で、夏は合宿、冬は旅巡業で老人ホームなどを回ります。そんな学生ですから、成績は「不可」が8つでとても3年には進級できない。とはいえ家業は継ぎたくない。それなら落語家になっちゃおうか。そんな気持ちです。母親は演芸好きでしたし、親父は家庭でもめごとを起こした時期で息子に強いことが言えない。またとない機会でした。
はじめは五代目柳家小さん師匠に弟子入りしようと何度もお宅に行ったんですが、お弟子さんが何十人もいて会うこともできない。見かねたお弟子さんが「うちは無理。馬生師匠のとこならいいんじゃないか」と助言してくれました。
今思うと、それが運命だった。うちの師匠で本当によかったと思います。師匠は高座と同じく飄々とした人柄で、芸風もとても自由。弟子も、のびのびできました。前座は師匠の家の掃除や雑用、かばん持ちが仕事です。ある日、掃除をちんたらやってたら、師匠が「バカバカしいかい。バカバカしいだろ。バカバカしいことを一生懸命やるのが落語だよ」と教えてくれた。「しっかりやれ」と怒ったりしない師匠の言葉は身に染みるんですよ。酒好きの師匠の大事なオールドパーを兄弟子と飲んじゃった時も、「俺の寝床に来るねずみはウイスキーを飲みやがんだ」なんてね。洒落てるでしょ。
弟子入りから4年目で二ツ目となり、六代目五街道雲助を名乗ることになりました。このころのあたしは、月に何回も勉強会をして、ひとつ覚えたらまた次とネタを増やしていました。「鰍沢」「真景累ケ淵」などで知られる圓朝もの*をやり始めたのもこの時期です。
もうひとりの大事な師匠、浅草の飲み屋「かいば屋」のおやじさんに出会ったのも20代。店には野坂昭如さん、田中小実昌さん、殿山泰司さん……仲間というには畏れ多い方々がいらしてた。阿佐田哲也さんにはご自宅で落語会をやらせてもらったこともあります。「酒飲んで人に迷惑をかけろ。次の日に反省をしろ。それでお前も人に優しくなれる」と、おやじさんに新宿のゴールデン街にも連れて行ってもらいました。そこでとぐろを巻いてるわけのわかんないのとつきあうのも、あたしにはよかった(笑)。髪を伸ばしてアングラ劇に出てパンツ1枚で体をくねくねさせて踊ったり、武智歌舞伎*に出たり。バスツアーの酔っ払い相手に余興もやりました。毎日、面白かった。
落語には、大酒飲みとか喧嘩ばっかりしてる夫婦とか、しょうがないのがたくさん出てくる。そんな人間たちの噺をする自分は、了見だけはアウトローでいたいと思います。自然な流れでつい落語家になって今に至るあたしですが、20代は落語家に欠かせない無頼の心を育ててもらった。ありがたい時間でした。
談話構成=ペリー荻野
出典:ひととき2024年4月号
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