「20代は自分の芯を磨き出し愛おしむ時間でした」吉川壽一(SYOING ARTIST)|わたしの20代
祖父も父親も普段からよく筆を手にしていたので、当然のように僕も幼い頃から手習いを始めました。その後、小学5年生から稲村雲洞先生、中学3年生から宇野雪村先生と、前衛書家の先駆けだった師に弟子入り。僕が前衛書の道を歩むことになったのは、彼らが師匠だったからなんです。
20歳の頃は、地元の福井で暗澹たる日々を過ごしていました。大学受験には失敗し、雪村先生とはけんか別れのような形で袂を分かち、かといってどこかに勤める気にもならず。でも、書だけは続けていました。飽きないんですよねえ。「心」という字なんて、これまで何千回書いたかわからないくらいだけど、80歳になった今でも飽きませんよ。
転機が訪れたのは21歳のとき。前衛書界で最も権威ある奎星展で、最高の賞である奎星賞を受賞したんです。「前衛の世界でやっていくぞ」と一気に火が付いて、同じ年、人生初の個展を開きました。展示したのは文字のない作品ばかりでしたが、当時は「墨と画仙紙を使った作品なのだから、これも書だ!」と考えていたのです。ところが、来場者は1週間でたったの3人。どん底に突き落とされたようでした。悩んだ末に、雪村先生の師で奎星会を創設した前衛書の第一人者・上田桑鳩先生を訪ねてみようと決意。僕は、すがるような思いで桑鳩先生の住む東京へ向かいました。
それまでの師匠もとんでもない人だったけど、桑鳩先生はさらにとんでもなかった(笑)。会うなり石を一つ眼前にどんと置き、「磨け!」と一言。無類の愛石家である先生のアトリエは、そこら中、石だらけなんです。訳もわからず言われるままに一生懸命磨いていると、数時間後に今度は「弟子になれ! 月謝はいらん!」と。雪村先生の弟子だった僕をご存じだったのでしょう。かくして東京−福井の遠距離指導が始まりました。
書家の教え方はさまざまです。雪村先生は毎回手本を5枚配って臨書させますが、あまり添削はしません。片や桑鳩先生は、僕の字を真っ赤に直す。手本は書かず「光明皇后の『楽毅論*』を勉強しろ」などと告げるだけ。勉強の仕方は自分で考えろというわけです。僕は、一文字ずつ形や流れを事細かに分析しながら、書いて書いて書きまくった。それでも、真っ赤に直されました。「全部捨てた」なんて言われたこともあったなあ。
厳しい指導のおかげもあって、20代後半には展覧会で賞をいただくようになりました。でも、内心はそんなにうれしいわけでもなかったんです。名前が知られてくると、周りは僕を「書家」にしようとお膳立てしてくる。弟子を何人もとって手本を書いて……。そんな道を進むのだろうかとぼんやり考えていました。
28歳のある日、不意に「一」という字が頭の中に降りてきました。陰と陽が見事に調和した「一」が、「これを書け!」とばかりに僕に迫ってきたんです。表現者として書の神髄を究めることを決意したのは、このときです。いま思えば、それまでのさまざまな経験を経て、ようやく前衛書の世界で生きる自信と覚悟ができたのだと思います。
20代を一文字で表現するならば、「磨」ですね。自分の芯を磨き出す時間だったとも思えるし、優しくなでながら愛おしむ時間だったとも思えるんです。
談話構成=後藤友美
出典:ひととき2023年8月号
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