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【HITOYOSHI】熊本県人吉を冠した極上のこだわりシャツ

記事の最後に、この度の豪雨災害に関する復興支援のお知らせを掲載しております。ぜひご覧ください。

今日も日本のあちこちで、職人が丹精込めた逸品が生まれている。そこに行けば、日本が誇るモノづくりの技と精神があふれている。これは、そんな世界がうらやむジャパンクオリティーと出会いたくててくてく出かける、こだわりの小旅行。さてさて、今回はどちらの町の、どんな工場に出かけよう!(ひととき2017年5月号 「メイドインニッポン漫遊録」より)

 熊本県の方言で〝わさもん〟という言葉がある。新しもの好きという意味で、くまもんブームなどまさにそう。そういえば熊本の人は昔からファッションにも非常に関心が高く、東京にない有名セレクトショップが熊本にはあったり、ファッションブランドのデザイナーやスタイリストにも熊本県出身者が多い。

 そんなわさもんのくに熊本県の人吉(ひとよし)市に、その名も「HITOYOSHI」というシャツメーカーがある。職人の高い技術とものづくりに対する真摯な姿勢が認められて、セレクトショップや百貨店をはじめ、海外の有名ブランドもわざわざ生産依頼に訪れる、シャツの名ファクトリーである。

 ここで作られるのが「HITOYOSHI MADE IN JAPAN」だ。日本の工場と職人発のブランドとして、あえて地名を冠した同社のオリジナルブランドである。老舗シャツメーカーならではの高い品質とこだわりをたっぷりと詰め込んだ着心地の良さは、名だたる高級インポートブランドと肩を並べる仕上がり。人吉から世界に向けて発信されているメイドインジャパンのシャツだ。

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白シャツだけでも衿の形、素材、サイズ、ドレスタイプ、カジュアルと豊富に揃い、この品質で6,000円台からというのも驚き。熊本地震の復興支援で買ってリピーターになった人も多いとか

 むむむ、わさもんを自負する筆者としましては、ぜひともHITOYOSHIのシャツに袖を通してみたい。そこでワレワレは、熊本県の人吉を訪れたのであります。

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球磨川

工場閉鎖危機からの大復活

 熊本県人吉市は、球磨(くま)焼酎で有名な球磨川が街の中心部を流れる、九州の小京都とも言われている情緒溢れる温泉街だ。この地域は熊本地震の被害はあまりなかったのだが、街を歩くと「頑張ろう熊本」と書かれた復興支援の募金箱をそこここで目にする。あれからもう1年、まだ1年。忘れてはいけません。

 HITOYOSHIの工場兼オフィスは、人吉の街を見下ろす小さな高台に建っている。白いペンキで塗られた外壁にブルーのペンキで社名が描かれた社屋は、素朴な白と青のコントラストが、まるでアメリカのニューイングランドあたりの古い民家みたいである。

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「建物自体は築28年になりますが、なかなか雰囲気があるでしょう。会社をスタートしたばかりの頃は時間が有り余っていたので、天気のいい日には社員みんなで外に出てコツコツと壁にペンキを塗ったんですよ」

 そう話すのは、30余年ずっとシャツの企画に携わってきている社長の吉國武さんだ。ジーンズに濃紺のセーターの襟元からチラリと覗く洗い晒しの真っ白なシャツがとってもお似合いの、実にダンディーな方です。

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「シャツを極めるとやはり白です」と、素材からこだわり抜いたホワイトコレクションについて熱く語る社長の吉國さん。シャツを語らせたらトークがとまりません

 今でこそ人吉といえばHITOYOSHIのシャツと言われるほどになったが、しかし吉國さんたちが中心となって会社を設立した当初はそうではなかったのだ。

 もともと、この工場は人吉ソーイングといって、大手のシャツ製造会社から生産を委託されていた子会社であった。平成元年(1989)に操業を始めた工場は、ピーク時には年間約60万枚ものシャツを生産していた。しかしこの業界もご多分にもれず、海外製の安価なシャツとの価格競争に敗れてしまい、平成21年(2009)、親会社が会社更生法の適用を申請して倒産してしまう。

「忘れもしません、2月26日の午後2時でした。親会社から会社更生法を申請したという通告の電話が突然入ったんです。私のところに明日から工場はどうなってしまうんだ! と怒鳴りこむ社員も大勢来ました」

 当時のことをそう語ってくれたのは、取締役工場長として職人の側からHITOYOSHIのシャツを支える、竹長一幸さんだ。

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竹長さん(右)と筆者

 実は社長の吉國さんの前職は、倒産した親会社の営業企画担当取締役である。竹長さんたちの技術力は世界でも指折りだという確信があり、何としても工場の閉鎖を防ぎたいというシャツづくりに対する熱い思いがあった。そこで根っからの営業マンである吉國さんは一念発起。事業再生の計画書を持ってファンドや地方銀行を熱心に回って、まずMBO(経営陣による買収)で工場を存続させた。破綻企業から独立しても無理。世界中を巡り上質なシャツを見て、着てきた吉國さんにはそんな通説を覆せるだけの勝算があった。

 ヒントはシャツの本場、欧州で見てきたものづくりの精神だ。地域に受け継がれる伝統と技術を守るために、あえて地名をブランド名に使い、店の奥には職人の工房がある。人吉のシャツ工場もそんな会社でありたい。

 そこで欧州のシャツ工房に倣(なら)って、中間業者を省き、販売会社と直接やり取りする少量多種生産に変更。技術力の高い社員を残して大型機械は撤去、ミシンによる手仕事に切り替えた。社名もHITOYOSHIと決めた。今ではその高い技術力が認められ、国内外約70ブランドのシャツを生産。地名を冠したオリジナルシャツは、欧州にひけをとらないクオリティーで人気商品になっているのだ。

 竹長さんに心配や不安はなかったですか? と聞いてみると、「私たちにはシャツをつくる技術だけは絶対に誰にも負けないという自信があります。その他のことはいっさい吉國社長を信じてついて行きましたから」と苦笑い。それを聞いて、吉國社長が「いやいや、ただ僕はトークが得意なだけです。商と工で、互いにいいコンビですよ」と照れ笑い。年齢も性格も違うお二人ですが、シャツが大大大好きということは変わりありません。

夢は人吉にシャツの博物館

 工場のシャツの製造工程は大きく裁断、縫製、仕上げ部門に分かれている。縫製は衿ライン、袖ライン、カフスライン、後ろ身頃、前身頃とさらに細かく分かれていて、社名の入った揃いのTシャツを着た社員たちがミシンをリズミカルに踏む音や、手際よくアイロンをかける音などがせわしなく聞こえてくる。

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自然な衿のラインを作りながら縫うために湾曲した特注の台がついたミシン

 物静かな竹長さんががぜん熱く解説してくれたのが、シャツの顔でもある衿ラインだ。衿部分の生地を表側と裏側でわずか5ミリ長さを違えて円筒型に縫製することで、洗濯しても首のラインに沿って自然にカーブした美しい台衿ができるのだ。人がミシンを使ってしかできないまさに職人技なのである。

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上衿の縫い方を解説する工場長の竹長さんの手。職人の手だ

 他にも、運針と呼ばれる縫製のステッチ数は一般のシャツが3センチ間に15~18針なのに対して24針。脇の裏側は縫い代が出ない巻き伏せ本縫い、ジャケットのように身頃を前に少しずらして立体裁断した袖付けなどなど。HITOYOSHIのオリジナルシャツは、随所に手間隙をかけている。

 さて、シャツを知りつくした吉國社長の次なる野望は、工場の隣に来場者がその場でオーダーメイドもできるシャツの博物館を建てて、人吉に世界中からお洒落な人たちをおもてなしすること。実はもうその準備は着々と進んでいるんだとか。やっぱり熊本はわさもんのくになのだ。

いであつし=文 阿部吉泰=写真

【お知らせ】
この度の豪雨で被災された方々に、心よりお見舞いを申し上げます。本記事でご紹介したHITOYOSHI様より、災害復興支援に関するお知らせをいただきましたので、以下に掲載いたします。(復興支援の募金ページは こちら

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いであつし(コラムニスト)
1961年、静岡県生まれ。コピーライター、「ポパイ」編集部を経て、コラムニストに。共著に『“ナウ”のトリセツ いであつし&綿谷画伯の勝手な流行事典 長い?短い?“イマどき”の賞味期限』(世界文化社)など。
●HITOYOSHI株式会社
<所在地>熊本県人吉市鬼木町1751-1
<URL>http://hitoyoshicorp.com
●東京オフィス
<所在地>東京都港区南青山5-4-29レジーナ南青山101

出典:「ひととき」2017年5月号
※この記事の内容は雑誌発売時のもので、価格など現在とは異なる場合があります。詳細はお出かけの際、現地にお確かめください。


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