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水軍三浦党、久里浜から平作川を遡上する|新MiUra風土記
この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第23回は、三浦半島の南東部、久里浜を歩きます。
久里浜駅に下りたのは初めてかもしれない。この横須賀線の終着駅は三浦半島最南端のJR駅。特急が発着する少し離れた京急線久里浜駅が利便なので存在感は薄いが、駅舎は横須賀駅と同じ戦前からのいい雰囲気を残している。
ここからより古い幕末の久里浜へ向かおうと黒船のペリー公園へバスに乗った。
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変わらぬペリーの上陸記念碑を眺めて、この浜辺でペリー艦隊の海軍兵が行進してる様子を思い浮かべた。演奏するアメリカ国歌は今の「星条旗」(*1)ではなく初代国歌「ヘイル コロンビア」と、愛国歌「ヤンキードゥードゥル(日本語訳詞「アルプス一万尺」)だったと久しぶりに訪ねたペリー記念館で知った。
(*1)The Star-Spangled Banner. 現在の米国歌は1931年制定。それ以前は別の歌曲、マイ・カントリー、ティズ・オブ・ディー(My Country, “Tis of Thee”)、別名 アメリカ(America)を愛国歌として使用していたとされる。
館内の4隻の黒船と浦賀と久里浜村のジオラマが面白い。そこには江戸湾(東京湾)と浦賀湊の地峡と久里浜の岸に平作川が見えている。リアス海岸、そう、三浦半島は縄文海進で浸食した海岸線でできていた。
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それはバイキングが跋扈した北欧のフィヨルド(峡湾、峡江)を想わせる。久里浜に注ぐ平作川は三浦の最高峰の大楠山の麓を水源にし、半島最長で約7キロありもとは切れ込んだ内海だった。
映画『ジュラシックパーク』のマイケル・クライトンの原作・監督の映画『13ウォリアーズ』、北欧伝説を元にした、スカンジナビア半島の地峡の王国へドラゴン退治に向かう冒険譚を想い出した。
平作川の流域には、水軍三浦党の城趾がいくつもあり、本拠の衣笠城は彼らの精神的な聖地でもあった。
半島の中世への旅はペリーゆかりの河口の開港橋からスタートする。
百日紅が咲く平作川の右岸を往くと、御稜威橋の名の対岸には陸上自衛隊久里浜駐屯地。地元では花見の名勝地で知られるが、ここはかつての海軍通信学校で、いまも通信・電子・情報とくにサイバー戦の教育施設になっている。
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乗合の釣船が群れて係留されているのが夫婦橋の河岸。内川入江と呼ばれ江戸初期に砂村新左衛門が干拓した新田開発地だ。難工事だったので生贄の娘の人柱伝説が残る。
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怒田城は三浦水軍の出撃地だったと云う。さきのJR久里浜駅前の日ノ出橋を渡ると小山が屹立している。ここは縄文時代からの吉井遺跡でもあり、山上にはとくに城塞跡は残らないが、眼下に往時の内海や外洋に船出する光景を想像してみるのがいい。
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その昔、村上水軍の取材で瀬戸内の来島海峡を小舟で行き来したことがあった。海賊、倭寇、パイレーツ、バッカニアetc. 水上戦とその弓術を得意とした三浦党は「海の武士団」だ(*2)。海戦だった壇ノ浦合戦でも活躍。そんなもののふの三浦の風景が見たかった。
(*2)『海の武士団 水軍と海賊のあいだ』黒嶋敏 講談社
怒田城の麓には古東海道の浦賀道が通り、いまも町名として残る舟倉の地名は水軍時代の軍船の船着場だった。以前は平作川上流域まで各種の船舶が不法繋留していたが、重点的撤去区域になり姿が見えない。
湘南橋を渡り、しばし平作川を離れて三浦一族のハートランド佐原、矢部地区へ(*3)。バス通りの左右の旧道には、衣笠城に向ってゆかりの寺社が残っている(*4)。
(*3)『三浦半島の歴史』田辺悟 横須賀書籍出版
(*4)『三浦一族研究』第二十六号 編集:三浦一族研究会 発行:横須賀市
『三浦一族研究会』。僕はこの横須賀市が主宰している研究親睦団体の会員だ。なぜ惹かれたのか? 三浦一族(三浦党)はミステリアスだから。そして水軍という自由さがなにより刺激的だった。
さてその三浦氏は、桓武平氏の為道が鎌倉に縁ある源頼義の東北の反乱を治める軍に参戦し、功をなして三浦半島を授かりこの地に城をきずき三浦を名乗って一族の祖となった。負け戦の頼朝の石橋山の決起に同調して、本拠衣笠城と棟梁義明を失い、そして鎌倉幕府の有力御家人となり、紆余曲折して戦国期に水軍でもあった後北條軍(北条早雲)に息の根を止められる。
その関東武者の真っ直ぐさと、半島の丘上を馬駆けし海をスイスイゆく姿は、僕にとっての三浦半島の歴史絵巻には欠かせないキャラクターなのだ。
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遊歩をつづけよう。平作川の支流矢部川の岸をたどると、佐原城址、満願寺(佐原義連ゆかり)から腹切松公園へ。この松の下で初期の棟梁三浦義明が城を抜け自害したと伝わる。川岸に森に覆われたひときわ隆起した台地。ここも城砦だったのではと思うのが清雲寺だ。三浦三代の五輪塔があり、元の本尊は運慶作といわれる「矢請けの毘沙門天」だ。鎌倉彫刻の巨人、運慶には三浦一族の猛将和田義盛がパトロンとして付いていた。
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バス通りを北側に渡ると、その和田義盛が建立した薬王寺。そばにはさきの義明の孫、智謀家三浦義村を祭神にした近殿神社。そして締めには、源頼朝が義明の遺徳をたたえて作ったと伝わる満昌寺。奥の御霊神社宝物殿には廟所があり、国重文の三浦義明坐像が哀愁を漂わせている(公開日のみ拝観可能)。
三浦半島を横断する三崎街道の衣笠城址の交差点のトンネルを抜けると。そこは衣笠城の追手門址。
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急坂を城の頂にある大善寺を目指す。衣笠城は三方を山に囲われた内陸深く海抜約200メートルの山城だ。南面を平作川流域から海が開き、そばをさきの古東海道が抜けている。理想的な地の利だろう(築城三浦為道 1063年[康平6年])。
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ただ戦国時代の城郭と違って、ここ中世初期の城砦は建物はおろか土塁、曲輪、縄張りも残っていないという(*5)。
(*5)『神奈川中世城郭図鑑』西股総生 松岡進 田嶌貴久美 戎光祥出版
衣笠合戦はわずか450騎が立て籠る三浦方に、畠山重忠ら平家方3,000が攻囲。89歳の三浦大介義明は独り残り死を選んだ(廃城1247年[宝治元年]、本連載第21回参照)。
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のどかな農地を昇りきると唐突に巨岩が現れた。それは合戦のさいの旗立岩だったらしいが、祈りの磐座にみえる。
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不動井戸に水が湧き出ていた。僧の行基が発見した霊水というが籠城時の命の泉だ。大善寺は曹洞宗の古刹で三浦一族の信仰の拠り所だった。
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寺の背後の高台に登ると、御霊神社がポツリと残り公園化した穏やかな広場には年代ものの三浦大介義明の記念碑が。裏には物見岩と呼ぶ大岩が樹木に覆われて沈黙している。
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三浦半島を400年以上にわたり統治していた、三浦一族の本拠地で心のふるさとだった衣笠城址。そこには遺構も聖獣ドラゴンもいなかったが、三浦一族らしい清々しさを憶える。それはまた湘南三浦の爽やかさにも伝承していたのか。三浦党は滅びてはいない。
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中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。
文・写真=中川道夫
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