イスタンブルに今も息づくシナゴーグを訪ねる|すべての祝祭を寿ぐイスタンブルの年末年始(2)|イスタンブル便り
この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、前回ご紹介したユダヤ教の祭礼・ハヌーカーを終えたあとのきわめて貴重な体験が綴られています。
ハヌーカーのお祭りが終わった翌日の、朝10時。わたしはクズグンジュックのシナゴーグの門の前にいた。
イスタンブルのアジア側、クズグンジュックは、ノスタルジーを込めてしばしば「最後のイスタンブル」とよばれる。 伝統的な木造の家並み、八百屋があり、肉屋があり、薬屋がある暮らし。夕方仕事帰りにパン屋(当然薪焼きだ)に寄ると、「さっきパオロさんが買って行きましたよ(だから買わなくて大丈夫)」と言われたりする。大都会なのに、村のようである。
親しみ深い土地柄を愛して、詩人や文筆家、建築家、アーティストの住人も多い。所得や階級で住所が分かれがちのイスタンブルで、さまざまな職業の人が住んでいる。そして、その多くが幼馴染だ。「クズグンジュック人」、「ご近所」という肩書きは、時に、社会的肩書きより重視されるほどである。
そんなクズグンジュックでは、半径200メートル以内に、モスク、アルメニア聖教とギリシャ正教の教会、シナゴーグが肩を並べている。「最後のイスタンブル」とよばれる所以である。本来、ボスフォラス海峡沿いの居住地は、伝統的にたいていがそうだった。
それが変わったのは、1970年代以降だ。イスタンブルは、25年ほどの間に、爆発的な人口増加を経験した。それとともに住人も様変わりした。昔ながらの暮らしぶりとご近所づきあいが残っているクズグンジュックのような地区は、ほんとうにわずかである。
そんな土地に住んで、もう15年以上になるのに、シナゴーグに一度も入ったことがなかった。関心がなかったわけではない。シナゴーグには、信徒以外は入れない。いや、許可を申請すれば入れないわけではない。だが近所だと逆に、わざわざ手間をかけるきっかけがないものだ。
知人のベキー・ハヌムからのメッセージでは、アーロン・ベイ(ベイはトルコ語で男性につける敬称)という人物が、扉を開けてくれることになっていた。
初老の男性がやってきた。挨拶を交わしたが、ニコリともしない。
わたしたちが入るとき、一緒に入ってこようとしたトルコ人の若者二人連れがいた。シナゴーグを見学できると思ったらしい。
「いや、前もって約束のない人は入れません」
アーロン・ベイは、二人の若者をけんもほろろに追い返した。
通りに面した鉄の扉が開くと、もう一重。分厚い鉄の扉と壁が視界を塞いだ。厳重である。そこを開けてもらって中に入ると、驚いた。通りに面した間口の狭い入り口から、想像できない広さの中庭だった。
シナゴーグの建物は、19世紀の半ばごろ建てられたものだという。明るいベージュ色が基調の、独特の装飾がある。天井が印象的だ。長方形の折りあげ天井で、その内側が区切られ、絵が描かれている。イェルサレム、ハイファ、その他、聖地の風景である。ヘブライ語で地名が書かれている。
ちょうど同時期の、オスマン帝国の建築のことを思い出した。1863年、オスマン帝国で最初の博覧会が開かれたとき、パヴィリオンにはスルタンの観覧席が設けられた。頭上の小さなドームはやはり八角形で、オスマン帝国各地の名所のパノラマが描かれた。それと同じだ。
一階が男性席、二階バルコニーが女性席とわかれているのも、モスクやオスマン帝国時代のキリスト教会と同様だ。
アーロン・ベイによれば、クズグンジュックには、1950年代ごろまで800家族ほどのユダヤ教徒が住んでいた。クズグンジュックは、金角湾沿いのバラット、対岸のハスキョイとともに、イスタンブルで最古のユダヤ人居住区だったのだ。小さな地区なのに、ここにはシナゴーグがもうひとつある。
現在、このシナゴーグに集う信徒は、20家族ほどだという。近所ではなく、遠くから来る人々もいる。礼拝のある土曜日を安息日と定めるユダヤ教では、原則車の運転も禁じられている。しかし、歩ける距離にシナゴーグがない人は、そうも言っていられない。
「現代生活に対応する、というわけですよ」
諦めと皮肉の入り混じった口調だが、うっすらとユーモアが感じられた。
「アーロン・ベイ、あなたもクズグンジュックで育ったんですか?」
そう尋ねたとたん、はじめて顔がほころんだ。
1948年生まれ、今年74歳のアーロン・ベイは、今は別の地区に引っ越したが、クズグンジュック育ちである。
「お前はムスリムだとか、ルーム(ギリシャ正教徒)だとか、ユダヤだとか、そんなのなかったよ。マルコ・パシャ小学校で、みんな一緒だった」
1950年ごろまでにイスタンブルで子供時代を過ごした人たちは、普通に数カ国語を話す。ユダヤ人ならばラディーノ語とトルコ語が母国語。そのほかに、学校教育でフランス語、人によってはギリシャ語、アルメニア語も話す。近所で子供同士、遊ぶうちに自然に覚えていたのだ。それが普通だった。
クズグンジュックには、地元のユダヤ人中学校と、イスラエル建国後、全世界に設立されたユダヤ人学校、フランス語教育のアリアンス・イスラエルの両方があった。オスマン帝国的と、近代が生んだイスラエル的。わたしの理解では、二つの学校には、微妙なカラーの違いがある。アーロン・ベイは、地元のユダヤ人中学校出身だ。
「誰にでも、見せるというわけではないんですがね」
アーロン・ベイはそういうと、シナゴーグの最も聖なる場所、美しい木彫りの扉を開けてくれた。
そこには分厚いカーテンがあった。中身がすぐに見えない。まるで、このシナゴーグに入った時のようだ。アーロン・ベイが恭しい手つきでそれを開けるとようやく、このシナゴーグが受け継いで来た数々の教典が現れた。
ユダヤの教典「トーラー」(原義は「教え」)は、両端が木製の棒に繋げられた巻物になっている。その棒の先端と、巻物を入れるケースに贅を凝らした独特の装飾が施される。たいていが銀製、あるいは、絹天鵞絨に金糸銀糸の縫取り、貴石をあしらった刺繍など、高価な材料が惜しみなく使われる。
これらの経典は、喜捨によるものだそうだ。シナゴーグの運営自体、喜捨で成り立っている。外国からの喜捨のトーラーもあった。なぜか、と問うと、意外な事実を知った。
クズグンジュックは古来、イスタンブルやエディルネに住むユダヤ人にとって、「イェルサレムに一番近い場所」だったのだそうだ。イェルサレムに巡礼に行けないとしても、死後せめて、アジア側のクズグンジュックに葬ってほしい。そう願う人々が多くあったのだという。
クズグンジュックのすぐ上の丘のユダヤ人墓地には、15世紀に遡る墓石が発見されている。イスラエルの最高聖職者もここを訪問するほど、ユダヤの宗教的伝統にとって、伝説的な場所だったのだ。
* * *
「シナゴーグの入り口が面している今のクズグンジュックのメイン通りは、川だったんだよ。向かい側の店に行くには、橋を渡ってたんだ」
見学のあと、中庭でチャイが出た。アーロン・ベイの昔馴染みたちも加わって、話に花が咲いた。
「靴の修理屋があって、ラケルダ(ハマチの塩漬け)屋があった。ラケルダ作りは、ルーム(ギリシャ正教徒)と決まってたんだ。ああ、あのラケルダ、どこに行っちまったのか。もう一度食べたいなあ!」
「それがなんだ、今朝もここへ来る途中、喧嘩があったって聞いたよ。昔のクズグンジュックではそんなことなかったよ、みんなお互いに、敬意を持っていたからな」
「家のドアに鍵なんてなかった。お前の家だとか俺の家だとかなかった。どこの子供も、みんな同じに、喉が渇いたら、どこかの家に行って水を飲み、また遊んだんだ。シナゴーグだって、扉はいつも開けっ放しだったさ」
扉が開けっぱなしだったシナゴーグ。今、分厚い二重の鉄の扉を通らなければ入れないこの中庭は、誰もが好きに入れる場所だった。
遠い昔の話ではない。今ここに、目の前にいる人たちが生きてきた出来事である。わたしたちはそれを、どこにおき忘れてしまったのだろう。
* * *
結婚式の写真が飾られていた。このシナゴーグで、この中庭で結婚した人々。生涯の愛を誓ったカップルが、それぞれの家族と一緒に写っている。どの人も、顔が輝いている。
突然、写真に写っている人々が、名前のある、体温をもった人として浮かび上がってきた。それぞれの囁き、それぞれの幸福、それぞれの人生をもった、ひとつひとつの物語。わたしのような、そしてあなたのような。胸が締め付けられた。
シナゴーグを辞したあと、すぐさまその辺のカフェに陣取り、電話をかけた。宛先は、ユダヤ教のチーフラビ(筆頭聖職者)庁だった。
* * *
「シナゴーグ見せていただきました。ハヌーカーのお祭りも」
チーフラビの秘書長、ユスフ・ベイと向かい合って座った時、風貌と物腰から、宗教者というより、学者のような印象を受けた。
「最初は単純なことだったんです。ハヌーカーのお祭りが見たい、という。でもそのあとで、いろいろなことを学びました」
興味深いと思ったのは、ユダヤの人々の、歴史に対する考え方だった。530年前のセファルディ*たちのスペインからオスマン帝国への移住という出来事を、現在も繰り返し語り、確認し、未来に伝えようとしている。
*ラディーノ語を話すユダヤ教徒のこと
そこまで昔のことを、今日の問題として考える姿勢は、日本にはあまりないように思う。いや、ある。京都がそうだ。しかし何かが違う。それは地理的広がりや民族のスケール感だろう。
ユスフ・ベイは、わたしの言葉をじっと聞き、ユダヤとイスラームがいかに分かちがたい関係にあったか、の軌跡を説き起こしてくれた。
12世紀ごろのイベリア半島(現在のスペイン)には、イスラームともユダヤともつかぬ、いやその両方が触発して溶けあった、独特の知的環境があったのだという。
そういえば、マドリッドから車で1時間ほどの街、トレドには、形式としてはモスクとしか言いようのない有名なシナゴーグがある。イスタンブルのセファルディたちの故郷だ。
「 ユダヤ人は、現在トルコで少数民族とされていますが……」
少数民族、という言葉にわたしが即座に反応すると、 ユスフ・ベイはこう付け加えた。
「そう、少数民族、という言葉を、わたしたちは好みません。おのずからネガティヴな意味がありますからね。でもね、少数民族、という言葉をあえて使うことで、いろんなことがうまく運ぶこともあります。そういう時は、そうです、使いますよ」
そう言って、ニヤリ、と笑った。
「ラディーノという言語について教えてください。15世紀にスペインからオスマン帝国にやってきたセファルディたちが使っていた言葉を、今の若い人たちはもうほとんど話せないと聞きました。実態はどうなんですか?」
「こういうことを言う学者もいます。ラディーノ語を将来わたしたちは、考古学の発掘でだけ目にすることになるだろう。言語というものは、話す人がいなくなれば死んでしまうものですよ」
そう言いながら、目の前で、ユスフ・ベイはラディーノ語を話してみせてくれた。スペインの王宮でみた華麗で濃密で絡み合うような装飾と、素朴で親しみ深いトルコの土の匂いが入り混じったような響きだった。
ユスフ・ベイはさらに、ラディーノ語の、地方ごとの違いを発音してくれた。「ストーブの煙突を茶色に塗った」という単純な例文の、トルコと、地中海を挟んで北アフリカのモロッコと、バルカン半島アドリア海岸のクロアチアで話されるラディーノ語の発音である。それは、まったく違う言語にきこえるほどだった。トルコ語、アラビア語、クロアチア語という、地元の語彙や文法を取り込んでそれぞれが変化したからだ。
それは、「方言」ではない。ラディーノ語には、都、つまり「中心」がないからだ。国を持たぬ言語、人々のつながりのみに依っている言語、それがラディーノ語だ。
それは、中世の地中海で自然発生的に人々が話していた共通語、リングア・フランカという言語のありかたにも似ている。国家や宗教の後ろ盾がない言語は、自然に生まれ、変化し、そして死ぬ。
ユダヤ人には、ヘブライ語という宗教の共通言語があるが、実生活では、居住する国の言語をも母国語としている。
オスマン帝国は歴史的に、アルメニア聖教徒、ギリシャ正教徒、ヨーロッパ起源の東地中海人、レヴァンティンなど、商業をベースに世界ネットワークで活動する人々の母国でもある。その文脈でいえば、国境に縛られないユダヤ人の存在も、いわばオスマン帝国の産物のひとつだ。1933年のある統計では、トルコで当時33の言語が話されていたと記録されている。
ユスフ・ベイとの対話は、二時間に及んだ。わたしたちがそろそろお暇を、と言い出すと、ユスフ・ベイが別室へ行き、戻ってきて言った。
「チーフラビが、お目にかかりたいと申しております」。
* * *
「お会いできて光栄です。お時間をお割きくださってありがとうございます」
「いえいえ、そんなにたいしたことではありません」
わたしがいうと、チーフラビはそう答えた。VIPといわれる人たちは、みな同様に謙遜するので、そう受け取った。すると、横からユスフ・ベイが口添えした。
「ユダヤ教のラビは、わたしたちの中の一人、というものなんですよ。第一、信徒の間から選挙で選ばれます。カトリックの教皇が持つような大きな権威とは違うんです」
そう言って、ニヤリとわたしのそばにいたパオロ騎士に目配せした。パオロ騎士は教皇のお膝元、ローマの出身だからだ。
「そういえば……」
日本でも有名なミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」を思い出した。ユダヤの伝統を守ろうとする主人公の父親と、変わりゆく新しい世代の話だ。
「あの映画の中でも、ラビが出てきますが、村人たちと膝突きあわせ、権威というより、親近感がある感じですね。ああいう感じなんでしょうか」
チーフラビの目がキラリと鋭く光った。
「そうですね。あの映画の中で、バイオリン弾きは、屋根の上で落っこちないようにバランスを取ろうとしています。 伝統と、時代の流れとのね。そのバランスが大事なんです。ところで、ユダヤ人は長い歴史のなかで、様々な困難にあいながらも、現在まで、生き残ってきました。なぜ可能だったと思いますか?」
「なぜでしょう?」
「理由は二つあります。ひとつは柔軟性、もうひとつは、伝統です」
チーフラビは、細くて頼りないが、柔軟だから風に揺れても折れない葦の喩えを話してくれた。
土地に縛られない、正確にいえば、土地を持つことを許されなかった民を束ねるには、何か共通のものが必要だ。信仰、そして、過去の(多くは困難な)経験を共有している、という連帯感だろう。突き詰めればそれが、伝統、の中身だ。
これはとても今日的な問題を含んでいる。
コロナは人類に試練を与えたが、もう一方で、われわれは今まで思ってもみなかった角度から物事を見るようになった。そのひとつが、「場所」への考え方だ。通勤ラッシュや高層ビルが、仕事を進める上での必須条件ではないことがわかってしまった。
実際トルコでも、混雑する大都市を避けて自然豊かな地方に一時的に移住し、そこからオンラインで仕事をする人が増えている。条件や文脈はまったく違うが、土地に縛られない、という点が、ユダヤの経験と似ている。
そして全世界で「連帯感」は、重要なキーワードとなった。
別れ際に、チーフラビから言われた。
「あのー、その、なんですな、ひとつ……、客観的な、ですね、お考えを、みなさんに知らせて欲しいと考えています」
キラリ、と、こちらを見た眼の中に、ユーモアの光を見た。
ほんのひととき間をおいて、わたしは次のように答えた。
「そうですね、記事が出たらおしらせします。客観的、になるかどうかは、もはや難しいかもしれませんけれど」
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
筆者のTwitterはこちら
最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。