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「立ち止まらず進めば変化や成長はついてくる」(フリークライマー・平山ユージ)|わたしの20代 

わたしの20代は各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺う連載です。(ひととき2023年5月号より)

 中学生のころから山登りにはよく出かけていましたが、フリークライミングに出会ったのは、15歳の時。登山用具店で講習会に誘ってもらったのがきっかけです。「岩山にボルトを打ち込んで、それを頼りに登るのかな?」なんて想像しながら現地を訪れると、上半身裸で、手や足の力でガシガシ岩を登るクライマーたちの姿が目に飛び込んできて。安全確保のための器具は使用するものの、それに頼ることはしない。自分の力だけで岩山を登るスタイルが、フリークライミングだと初めて知りました。何よりかれたのは、岩の表情がどれも違って感じられること。毎回違う登りができて「これは飽きないな。世界中が遊び場になるぞ」と。

 もっと難しいルートにトライしたくて、17歳で学校を休学。アルバイトでためた旅費で、アメリカやヨーロッパを巡りました。目標はただひとつ「世界に通用するクライマーになること」。当時の僕のエネルギー量は、半端なかったですね。ところが、当時世界最難度といわれたヴェルドン渓谷*の「レ・スペシャリスト」ルートの登攀とうはんを達成した途端、クライミングへの興味が一気に失せてしまったんです。この先どう進むべきか、道を見失ってしまった。僕の20代は、そんなもやもやした日々から始まりました。

*フランス南東部に位置する世界的に有名なロッククライミングエリア

 将来のことを考え直すため、日本に戻って復学。でも、勉強もクライミングもどっちもつまらなかった。挙げ句「どちらか選ばないといけないならクライミングかな」くらいの気持ちで、プロクライマーへの道を選んだんです。プロとしての存在感を示すためには、室内で行うスポーツクライミングの競技会で結果を残すのが近道だと思い、ヨーロッパへ渡り活動のメインを競技会に絞りました。ドイツの国際競技会での優勝をはじめ滑り出しはすこぶる好調。でも心の中では相変わらず迷いが消えなかった。「なぜ僕はクライミングを続けるんだろう」という問いが常に頭から離れなかったんです。

 26歳の時、アメリカの競技会に出ないかとオファーをもらいました。アメリカを訪れるのは、17歳の時以来9年ぶり。空港に降り立つや、風景の見え方が前回と違っていることに気づいたんです。無意識のうちに、多面的に物事を見ている自分がいました。決定的だったのは、有刺鉄線で囲われたインディアン居住区を見た時。「彼らは自由を奪われたんだ」と感じていました。小国、大国が共存するヨーロッパでの9年間の暮らしで、考え方が変化していたんです。弱い者が生きていくためには、強い者に対抗する何かを持たねばならないと。それは世界に向かう自分の心情とも重なりました。

 変化はもうひとつありました。17歳の時に羨望の眼差しで見上げたスフィンクス・クラック*を、自分の思い描いた通りに登り切ることができたんです。考え方の変化、クライマーとしての成長……。僕がこれまで求めていたのは、この「変化」や「成長」を得ることだったんだと思い至りました。その2年後、不可能といわれたヨセミテ渓谷サラテルートのフリー登攀を達成することができました。

*アメリカ・コロラド州コロラドスプリングス市にある岩山の世界最難度ルートのひとつ

1997年9月、28歳でアメリカ・カリフォルニア州のヨセミテ渓谷サラテルートのフリー登攀に成功 写真=飯山健治

 振り返れば悩みっぱなしの20代でしたが、立ち止まらずに進み続けたことが、実りをもたらしてくれました。動けば余計なものはシェイプされ、大切なものだけが削り出されていくんだと思います。

談話構成=後藤友美

写真=永峰拓也

平山ユージ
1969年、東京都生まれ。15歳でクライミングを始め、10代で国内トップクライマーに。アメリカでのトレーニングを経て19歳でヨーロッパへ渡り、数々の国際競技会で好成績を挙げる。1998年のワールドカップで日本人初の総合優勝、2000年には2度目の頂点に。2010年、自身初プロデュースの本格的クライミングジム「Base Camp」を開設。テレビ解説、競技の普及活動など多方面で活躍中。

出典:ひととき2023年5月号

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