ラダックブルー 仲野 徹(大阪大学医学部病理学教授)
小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え、「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2020年6月号「そして旅へ」より)
ラダック、ほとんどの人はご存じないだろう。インドの最北部、西はパキスタン、東は中国に挟まれたチベット文化圏の地域である。
10年ほど前のことになるが、インド映画「きっと、うまくいく」が、少なくとも私の周りでは大人気を博した。そのラストシーンは標高4千2百メートルにある真っ青な天空の湖、パンゴンツォ。いつか行ってみたいと思った。
例年、夏休みは僻地旅行に赴くことにしている。一昨年、候補地をネットで探していたら、ラダックにあるパンゴンツォがひっかかった。不覚にも、行きたいと思ったことをすっかり忘れていた。
職場でラダックの話をしていたら、ひとりが「姉の友人がラダックの人と結婚して、現地でツアー会社を営んでおられます」という。こういう偶然は絶対に「吉」である。迷わず旅行のアレンジをお願いしてラダックへ向かった。
チベット仏教の寺院、標高4千メートルの峠越えトレッキング、インダス川上流域の道なき道を行くドライブ、そして、空の景色を映して刻々と色を変えるパンゴンツォ。どれもが素晴らしかった。
翌年、さて今年はどこへ行こうかと思案し始めた頃、また吉兆と思える偶然があった。大阪大学の出版会の仕事で、木村友美さんのことを知ったのだ。
木村さんは、世界のいろんな地域での食事内容と健康を調べる「フィールド栄養学」なる学問を唱えている女性研究者である。その調査対象地域のひとつがラダックだ。早速、興味津々で木村さんの研究室におじゃました。
前職の京都大学時代からラダックをフィールドにしてこられただけあって、現地のことにやたらと詳しい。思いもしなかったユニークな旅行ができそうだ。
同じ場所へは旅行しないポリシーなのだが、それを曲げて2年続けてラダックへ行くことにした。
行き先のひとつはドムカル村、それこそ無名である。そりゃそうだろう。京大の研究チームが、何も観光資源がないから、それを観光資源にしたらどうかと提案したことがあるほどの村なのだから。
ドムカル村は標高が2千5百から4千メートルにもおよぶ川沿いの村だ。その最上部の集落を訪れた時、老婆が家に招いてくれた。何もないけれどと言いながら出してくれた、おそらくは贅沢品であろうパンの味が忘れられない。
訪問した小学校でのかわいらしい子どもたちによる歌や踊り。庭で仮面舞踏が繰り広げられるチベット寺院でのお祭り。チベット医のウルギャンさんといっしょに行った標高4~5千メートルあたりでのピクニックと薬草摘み。雨と雹に降られた翌日、泥だらけの道なき道を歩いたトレッキング。
2年続けてのラダック旅行は、どの思い出もその背景が真っ青な空だ。どこでも空は青いだろうと言われるかもしれないが、きれいな空気と標高のせいだろう、ラダックの空の青さは絶対的に違う。
素朴で親切な人々、そして、あの青空が忘れられない。同じ場所は再訪しないというルールをもう一度曲げて、いつかまた訪ねることになりそうだ。
文=仲野 徹 イラストレーション=林田秀一
仲野 徹(なかの とおる):1957年、大阪府生まれ。大阪大学医学部病理学教授。大阪大学医学部を卒業後、内科医から研究の道へ進み、現職。『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)、『生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究』(河出文庫)など著書多数。
出典:ひととき2020年6月号