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無花果の味とトルコの「乗り鉄」 |イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、東洋と西洋が交叉する街、イスタンブルにある鉄道と駅舎のお話です。

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無花果の季節である。

この季節になると、思い出すことがある。それは、トルコのエーゲ海地方、アイドゥンという小さな町の、鉄道駅でのことだ。今月は、その話をしよう。

* * *

「乗り鉄」という言葉があるそうだ。最近の造語らしいが、わたしはそれである。というより、その言葉ができる前から実行していた。

30年近く前、まだ学生だった時分のことである。

当時わたしは、トルコの鉄道駅舎の建築について調べていた。オスマン帝国の近代19世紀の建築文化について、ありとあらゆることを知りたいと思っていた。

イスタンブルには、ふたつの鉄道ターミナル駅がある。ふたつとも、ボスフォラス海峡に面した立派な建物である。

いうまでもなく、イスタンブルをふたつに隔てるボスフォラス海峡(地理的な正式名称は、「イスタンブル海峡」)は、 アジアとヨーロッパの境界とされている。これを挟んで西側がヨーロッパ側、東側がアジア側である。当時アジア側に住んでいたので(今もだが)、アジアからヨーロッパを往復するとほぼ毎日目にする。

アジア側とヨーロッパ側をつなぐ連絡船はイスタンブル市民の足。バスと同じ値段、カードで乗れる。最近は新しいタイプの小回りのきく船が多いが、これは昔ながらの大型船。

あるとき、 奇妙なことに気づいた。

「オリエント急行」の発着駅、ヨーロッパ側のシルケジ駅。アーチや装飾はエジプトのマムルーク建築の要素を駆使しており、オスマン建築史では「オリエンタリズム様式」の代表作とされる。

ヨーロッパ側にあるシルケジ駅(1889年竣工)の建物は、オリエンタルな雰囲気をたたえている。対するアジア側のハイダル・パシャ駅(1906年竣工)は、ヨーロッパのお城のような建物だ。アジア側なのにヨーロッパ式、ヨーロッパにあるのに東洋風? 逆ではないのだろうか?

アジア側のハイダル・パシャ駅。ルネサンス風の塔を両脇に控えて海に面する姿は、ヨーロッパのお城のようだが、中央に時計があるところが鉄道駅。残念ながら、駅としての役目を終え、高級ホテルとなるべく現在改装中である。二つの駅の立地は下記の地図をご参照ください。

じつはこういうわけである。

イスタンブルのアジア側のターミナル駅は、イスタンブルとバグダッドを繋ぐバグダッド鉄道の発着駅。つまり、アジアからやってきた人が初めて出会うヨーロッパ、それがイスタンブルだ。そして、ヨーロッパ側のシルケジ駅は、オリエンタル風。なぜなら、ヨーロッパから来た人が最初に見るイスタンブルの印象が、この駅だからだ。

シルケジ駅の待合室。石造の外壁に対して、天井や内壁の木造の化粧が暖かみを添える。S字型の洒落たベンチも当時のままである。

旅行者の眼から見た都市のイメージが駅舎の建物に表されている。なんとも心憎い演出ではないか。

これを研究したら面白いのでは。題して、「オスマン帝国の鉄道駅舎建築研究」。運良くスポンサーも見つかった。これで実地に見学もできる。

シルケジ駅の線路側。ブカレスト行きとソフィア行きの国際鉄道は今も運行しているが、残念ながらこの駅からの出発ではない。現在では、地下鉄と郊外線の乗換え駅としてもっぱら利用されている。

だが、さて調べはじめてみたら、問題はそんなに単純ではなかった。ひとくちにオスマン帝国、といっても、トルコ国内だけではない。

オスマン帝国で初めて敷設された鉄道は、なんとエジプトだった。当時、エジプト総督領として半独立状態ではあったが、曲がりなりにもオスマン帝国領。カイロ・アレクサンドリア間が最初、1856年の開通。アレクサンドリアが地中海貿易の重要拠点として華やかだった時代のことだ。

二番目も現在のトルコ国内ではない。現ブルガリアの、ルセ・ヴァルナ(1864年開通)。ヴァルナはバレエコンクールで有名な街だが、ドナウ河が黒海に流れ出る地点にある。つまり、プロイセンやオーストリア・ハンガリー帝国から黒海へ出るときに、近道となるルートだ。そして、ヴァルナまで出れば、イスタンブルへは船ですぐである。

三番目に作られた鉄道が、ようやくトルコ国内だ。けれどイスタンブルではない。エーゲ海地方だった。

海運が世界の交通の主流を占めていた時代。地中海貿易の中心は、オスマン帝国の帝都イスタンブルではなく、ヨーロッパに近い港湾都市だったのだ。イズミル・アイドゥン間(1866年開通)。

アナトリアの豊富な農産物を運び出し、イズミルから積んで船出するために造られた鉄道だ。主要作物は小麦に豆類、葡萄、そして無花果だった。

エジプト、ブルガリア、そしてトルコのエーゲ海地方。わたしはすべての路線に「乗り鉄」し、鉄道駅舎の建物を調査した。

シルケジ駅のメインホール。西洋式の本体に、マムルーク様式やムーア様式などのイスラームの要素を組み合わせた典型的なオリエンタリズム様式。建築家は、ドイツ人のヤスムント。手前の柱は、鋳鉄製。

ところがこれらの鉄道はすべて、オスマン帝国の国鉄ではなかった。オスマン帝国の領内ではあったが、イギリス資本が入っていたのである。イスタンブルは、イギリスの3C政策(カイロ、カルカッタ、コンスタンチノープル〈イスタンブル〉を結ぶ、大英帝国の植民地政策)にも、ドイツの3B政策(ベルリン、バグダッド、ビザンチウム〈イスタンブル〉を結ぶ、ドイツ帝国の植民地政策)にも入っている、戦略上の重要地点だった。この点が、日本近代の鉄道の歴史と、いちばん大きな違いだろう。

エジプトでは、エジプト総督ヒティヴのお召し列車の豪華さに驚き、ブルガリアでは、資料の入手にトルコ人のタクシー運転手さんが協力してくれた。ブルガリアのルセ・ヴァルナ鉄道は、沿線に今もトルコ系の人々が多く住んでいたところが印象的だった。

トルコのイズミル・アイドゥン鉄道は、今ではもうそんなことはないだろうが、たいへんのんびりとした進み方で、昔の姿を彷彿とさせた。列車は見渡す限りの小麦畑の中をゆく。各駅停車なので、車よりずっと遅いのだが、地元の人が乗ってきては、降りてゆく。乗客同士で話が弾むこともあった。

あとから伊東忠太ちゅうた(*1)のことを研究するようになって、忠太が同じ路線に乗ったことを知った。忠太が乗った当時は、現代よりももっと時間がかかっただろうが、乗り合わせた人が歌を歌い、忠太も歌わされた、などという話が忠太本人の書いた旅行記に出てくる。

(*1)伊東忠太(1867-1954)。明治~昭和時代の建築家、建築史家。「建築」という語を作った。著名な作品に築地本願寺、平安神宮、一橋大学兼松講堂など。筆者著『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』もご参照ください。

これは今でもそうだろうが、トルコで現地調査をしていると、いろいろ面白いことが起こる。

外国人の女子学生(わたしのことだ)がうろうろしていると、人々が寄ってくる。乗客の場合もあるが、たいていは駅の職員で、一体何事かと尋ねられるのだ。

事情を話し、アンカラの国鉄本部から受けた許可証を見せると(隔世の感があるが、当時は、駅構内での写真撮影も厳しい時代だった)、態度がガラリと変わる。駅員の方が興味を持って、いろいろ便宜を図ってくれることもあった。

シルケジ駅構内には、オスマン帝国鉄道、トルコ共和国鉄道の遺物を集めた鉄道博物館がある。これは、実際に使われていたベル。「C.F.O.A.」は、Chemin de Fer Ottoman d’Anatolie(フランス語で、「アナトリアのオスマン帝国鉄道」)の略称。
1930年代の車掌が使用していた書類カバンや懐中時計。鉄道博物館より。

片隅に座ってメモを取ったり、撮影記録を整理したりしていると、チャイがやってくる。ありがたくいただいて、話をしていると、鉄道にまつわるいろいろな話が聞けたりした。鉄道で働いているひとびとには、自分の仕事や、鉄道そのものにたいする、一種独特の愛着がある。こういう点は万国共通だな、と思うのである。

シルケジ駅構内には、みんなに親しまれるチャイ屋さんがある。聞くと、国鉄退職者の会で運営されているのだという。
駅のベランダのチャイ屋さんは、旅行者だけでなくイスタンブルの地元の人々の憩いの場だ。

イスタンブルの郊外線、「バンリュー線」を調査した時は、駅舎とともに設計された駅員官舎の建物がまだ残っていて、中を見せていただいたりもした。家族全員どころか、親戚一同までやってきた。こちらも子供達に折り紙を折ってあげたり、ひとしきり話した後、おいとましようとすると、家族の一番小さな男の子が半泣きになった。

「この子が、聞きたいことがあるんだそうです」。

子供のお母さんが、口添えをした。恥ずかしがり屋の男の子が、やっとの思いで尋ねた質問を、わたしは今も忘れない。

「日本では、どんな朝ごはんを食べるんですか?」

ご飯にお味噌汁、生卵に海苔、魚の干物に梅干し。典型的な日本の朝ごはんを説明したことは、いうまでもない。

* * *

イズミルのアルサンジャック駅から乗って、終点のアイドゥン駅で降りた時、少し意外な感じがした。イズミルのターミナル駅はイギリス時代の建物が残っているが、アイドゥンは共和国初期ごろのモダンな建物だったからだ。

メモを取っていると、駅員の方がチャイをご馳走してくれた。手を休めていただき、ふたたび作業を続けていると、その駅員の奥さんと思われる女性がやってきた。 包みを手にしている。わたしに手渡しながら言った。

「これ、後で食べてくださいね」。

見ると、それは袋いっぱいに詰められた干し無花果だった。白無花果である。官舎の庭になった無花果を、自分たちで干した手作りだという。

あとで味わってみて、驚いた。柔らかくて、干し果物なのに、瑞々しい。今まで知っていた、買った干し無花果とは、まったく違う味だった。ほんのひととき、その官舎の庭に無花果の木を植えたであろう誰かのことを、思った。

今年の無花果。

* * *

今年の葡萄と無花果。見栄えの良くない、家庭の「庭の無花果の木」に見られるタイプ。これが美味しいのである。

無花果でなくて葡萄だが、あるとき日本の外交文書館で、明治時代のトルコの葡萄の話に行きあたったことがある。

日本とトルコの間に交わされた、最初期の文書のひとつである。明治時代、「トルコ」は、「土耳其」と書かれたり、「土耳古」、「土耳格」と書かれたりした。どれも、現在のトルコ共和国ではなく、オスマン帝国のことだ。

日付は1878年1月。明治11年。和紙に毛筆、墨で書かれている。日本語訳は、「拙者……」と始まるほどの時代だ。「土耳格国サモス島の公爵コンスタンタント、フオチアデス」から乾葡萄数箱が届き、日本の賞牌を希望している。

サモス島は、現在ギリシャ領。だが地図を見ると、トルコのエーゲ海側、イズミルから至近距離にある。そんなところから、明治の東京へ、干し葡萄を送った公爵がいる。ムスリムではない。名前の「コンスタンタント」からすぐにわかる、ギリシャ正教徒だ。あとから判明したのだが、フォチアデス公爵は、オスマン帝国の駐ローマ大使を務めたこともあるファナリオット(ビザンチン時代から続くギリシャ正教徒の)貴族だった。

これは「営業」である。その葡萄は、どうなったのだろう。外務省のみんなで分けて、味わったのだろうか。

こんな酔狂なことをする貴族がいたんだな。そのときは軽くそう思った。
ところが、あとから腑に落ちたのである。

クリスマス前のローマ。その季節に、家に揃えておくべき食品がいくつかある。トッローネというナッツ入りのヌガー菓子。チョコレート。胡桃やピスタチオなどのナッツ各種。そしてナツメヤシ(デーツ)、干し無花果。要するに、高カロリーで濃厚に甘いものを多種蓄えるのだ。

老舗の高級食材店のウィンドウに、宝石のように恭しく飾られていたものを見つけた。干し無花果だった。イズミルの無花果。万国博覧会で受賞。世界で最高級とされる干し無花果が、トルコ産、イズミルのものだと、その時に知った。そしてその瞬間、腑に落ちたのだった。

イズミルから、アイドゥンという今はそれほど知られていない町まで、なぜ鉄道が敷設されたのか。

ドライフルーツ屋さんの店に売られている干し無花果。

* * *

イズミル・アイドゥン鉄道の走るあたりの風景は、トルコでも最も美しい風景かもしれない。緑豊かで、秋には黄金の実りをもたらす大地。

その土地の名前は、アイドゥン・インジルリオヴァ。文字通り訳すならば、「無花果が原」という意味である。

オスマン帝国時代の古い邸宅の廃墟の壁に自生し、大木となった無花果の木。無花果の強い生命力は、実が落ちて自生した家を、大きく張った根で破壊する、という諺があるほどだ。 イスタンブル市内。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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