信楽の土と格闘した日々(陶芸家・神山清子)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画
旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画「わたしの20代」。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺いました。(ひととき2022年2月号より)
戦後、狸に化かされそうな信楽の山道を1時間歩いて、中学に通いました。読書や絵が好きで、美大に進む夢もあったけど、家計が苦しく、和洋裁の学校に行き、裁縫の注文を受けて働きました。
18歳のときに縁あって、陶器会社に就職。当時は、暖房といえば火鉢で、すごく売れたんです。夜なべも多かったけど、女性は補助的な仕事しかない時代に、私は有名な先生に指導を受けながら、絵付師として働かせてもらえました。幸せやったと思います。21歳で結婚、娘が生まれてからも続けました。岡本太郎さんが会社にいらしたとき、子どもを背負ってる私が珍しかったんやろね、娘にチョコレートくれはりました。
27歳で独立し、陶芸を始めましたが、旦那は女性と遊び歩くような人でしたからお金がない。筆1本持って、信楽中回って絵付けを引き受け、野菜や反物、お茶碗なども売りました。朝3時起きでようやったと思います。信楽焼の狸も作ったけど、あれは難しい。薄い土板を型抜きするバランスが悪く、私の狸はみんな倒れてお辞儀して人に笑われた。狸に化かされました(笑)。
作陶では、私は信楽の土を自分で掘ります。小石もいっぱい混じっているし、こねると手が血だらけになんねん。こんな力仕事を女性がするとは思われてなくて、展覧会では私の名前を「せいし」と読んで男性やと思っていた人がいたくらいです。
30歳で滋賀県展などに入選後も試行錯誤は続きました。古代の穴窯で作られた、釉薬なしで緑色に輝く「自然釉」の再現をしたくて、自宅に穴窯を作って実験の毎日。子どもの頃、父親に畑仕事の細かい記録をつけさせられた経験が生きました。結果、自分の欲しい色のためには、4日ですむものを10日以上焼き続けなければならない。薪の費用もかかるし、寝ないで温度管理もせないかん。なんとか思った色に近づけたときはうれしかったですよ。
20代は、苦しかったけど、働くことも、自分なりの実験も好きでした。一生懸命やったから「清子さん」と声をかけて助けてくれる人に出会えた。その上、自分の半生がドラマや映画になるなんて。失敗しながらも続けてきてよかったと思います。
談話構成=ペリー荻野
信楽の陶器会社では念願の絵付に携わる(前列右)
神山清子(こうやま・きよこ)
陶芸家。1936年、長崎県生まれ。転居した滋賀県信楽町(現・甲賀市)で陶芸の道に入る。当時、女性は窯に入ることが許されなかったが、自宅の穴窯で信楽自然釉の陶器を作り、次第に評価が高まる。女性陶芸家の草分けとして、その半生は田中裕子主演の映画「火火」や、NHK連続テレビ小説「スカーレット」などに描かれた。
出典:ひととき2022年2月号