トルコから見るシルクロード(2)イスラーム・ホジャの夢(ヒヴァ)|イスタンブル便り
首都タシケントでの講演の翌々日、飛行機でヒヴァへ飛んだ。
ヒヴァはウズベキスタンの西端。海のない二重内陸国ウズベキスタンの、さらに奥まったところだ。こう言ってはなんだが、地の果てのような場所だ。そんなところに、なぜわざわざ行ったのか。
ここは、ヒヴァ・ハーン国という小さな国の首都だった。街そのものがそっくりそのまま、世界遺産である。日干し煉瓦で造られた独特の城壁に囲まれた「城内」は、ウズベキスタンのなかでも、最初に世界遺産に指定された、特別な場所なのだ。
空港から直行した宿で、違和感があった。選んだ宿は、近代的なホテルではなく、メドレセ(イスラーム神学校)の建物を改装した歴史的建造物だった。歴史的空間を、経験してみたいと思ったのである。
建物入り口の表札を見て驚いた。1905年。建造年は日本で言えば明治時代、日露戦争の頃ではないか(ちょうど、伊東忠太がオスマン帝国を旅行していた同時代でもある)。
「中世の街並みがそのまま残っている」、「都市そのものが博物館」。
ヒヴァの旅行ガイドを見ると、必ず書いてある。たしかにこの建物は、中世のような佇まいだ。だが、建設年は20世紀初頭。現代の旅行者向けに古いものに似せて建てられたものでもない。
わたしが違和感をもったのは、建物の様式だった。
1905年といえば、世界的に変化の時代だ。しかしこの建物には、「近代」への変化を思わせるような要素が、微塵もない。
この時代に新築された建物が、伝統様式? 明治の文明開化の時代に、純和風で仏教学校を作るような感じだろうか。
この中世そのもののような街は、近代化の流れにどう対応していたのだろう。まさか、時代の流れのなかで、この街だけが無傷でいられたわけではあるまい。そんな疑問が生まれた。
実際に街を歩くと、おかしなことに気づいた。
歴史的な街のはずである。たしかに10世紀建造のモスクなどはある。だが、どこもピカピカしている。世界遺産として修復しすぎの感は否めないが、それだけではない。建物の建設年を見て歩くと、大半が19世紀、もしくは宿と同じ、20世紀初頭の建造なのだ。ではこの中世のような様式の建物は、このタイルは、いわゆる「近代化」の時代の産物なのか。
突然自分が、ディズニーランドのような、架空の虚構の中で作られた空間にいるような錯覚を覚えた。
ヒヴァの街は、「中世の街並み」ではなく、じつは「近代都市」なのでは?
そんな突拍子もない考えが、頭をよぎった。
ウズベキスタンの西部、ホラズム地方のヒヴァは、かつてのイスラーム王朝、ヒヴァ・ハーン国の首都である。現在のウズベキスタン西部、カザフスタン南西部、トゥルクメニスタンの大部分がその範図だ。ハーンとは、系統的にモンゴルのチンギス・ハーンの子孫という意味である。
16世紀初頭に建国されたヒヴァ・ハーン国は、1873年にロシア帝国に占領され、保護統治領となる。 すでにそれまでに、南東部のブハラ、サマルカンドも同様の運命を辿っていた。革命以前の話である。
博物館で、その保護領のハーン、ムハンマド・ラヒム・ハーン二世(1847頃-1910)がロシアを訪れた時の写真を見た。西洋式の軍服を着たロシア人と、伝統的なカフタン、毛皮の帽子をかぶったハーン、その随行員。その服装や佇まいの対照が、印象深い。一行は、1894年、のちにロマノフ朝最後の皇帝となるニコライ二世(位1894-1917)の即位式に出席した。写真は、そのときに撮られたものだ。
当時のヒヴァ・ハーン国の人にとって、「近代」の体現とは、「西洋」とは、ロシアのことだったらしい。意外な感じがするかもしれないが、それはオスマン帝国にとっても同様だった。西洋でない国の「近代化」は、どう実現できるか。ロシア帝国は、<非西洋>の国の近代化の、ひとつのモデルだった。(*1)
弱冠26歳で大宰相に抜擢されたヒヴァ・ハーン国の若きリーダー、イスラーム・ホジャ(1872−1913)は、ムハンマド・ラヒムの息子、イスファンディヤール・ハーン(位1910−1918)に随行してロシアへ行った。
そこで西洋文化と出会い、憧れる。陶器づくりや絨毯、絹織物などの生産を奨励し、病院を設立し、「新方式」の学校を作った。ヒヴァで最も高いミナーレ(光塔)は、イスラーム・ホジャの寄進による建設である。
イスラーム・ホジャが仕えたムハンマド・ラヒム二世は、息子イスファンディヤールのために、ヒヴァ城外に、ロシアともヒヴァとも西洋ともつかぬ、そしてそのすべてを含んだ宮殿、ヌールッラーベイ宮殿を造らせた。
その様式の混在、装飾の過多、圧倒的なイマジネーション、そして伝統への尽きせぬ愛着は、西洋の規範の趣味の良し悪しなどという価値判断を、軽々と超えている。 夏は灼熱、冬になると氷に閉ざされる砂漠の国の、未知のものへの希求の激しさに、はっと打たれる思いがする。
現在のヒヴァの街の中心部、 イーチャン・カラ(城内)は、端から端まで歩いて15分くらいのこぢんまりしたところだ。ウズベキスタンで最初に世界遺産となった場所だそうだ。1917年にロシアで革命が起こると、1920年にはヒヴァにそれが波及した。ヒヴァ・ハーン国はここに終焉する。ヒヴァは、ホラズム社会主義人民共和国として、ソヴィエト連邦の一部となり、のちにウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に組み込まれることになる。
1920年当時、ヒヴァには、94のモスク、63のマドラサ(イスラーム神学校)があったという。
ヒヴァのひとたちが夢見た近代とは、なんだったのだろうか。20世紀初頭に建設され、今では建物だけが残るマドラサの数々を見ると、そんな思いが浮かぶ。イスラームの教えと、現代科学の共存。それはもしかしたら、あったかもしれない、近代の、別の形だったのだろうか。
ソヴィエト式に塗り替えられ、過去の記憶は消され、今では辿りようもない。歴史に「もし」はない。だが、ほんのひととき、そんなことを思うのである。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
▼この連載のバックナンバーを見る
最後までお読みいただきありがとうございます。いただいたサポートは、ウェブマガジン「ほんのひととき」の運営のために大切に使わせていただきます。