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トルコから見るシルクロード(2)イスラーム・ホジャの夢(ヒヴァ)|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、学術調査でエジプトからウズベキスタンへ。かつて伊東忠太も憧れたシルクロードのお話の第2弾です。

首都タシケントでの講演の翌々日、飛行機でヒヴァへ飛んだ。

ヒヴァはウズベキスタンの西端。海のない二重内陸国ウズベキスタンの、さらに奥まったところだ。こう言ってはなんだが、地の果てのような場所だ。そんなところに、なぜわざわざ行ったのか。

世界遺産の街・ヒヴァ遠景

ここは、ヒヴァ・ハーン国という小さな国の首都だった。街そのものがそっくりそのまま、世界遺産である。日干し煉瓦で造られた独特の城壁に囲まれた「城内」は、ウズベキスタンのなかでも、最初に世界遺産に指定された、特別な場所なのだ。

ヒヴァの「イーチャン・カラ(城内)」は、中に入ると迷路のようだ。中心部に密集する宮殿や神学校は、それぞれ高い壁に囲まれ、外からは様子がわからない。
タシ・コヴリ宮殿内部。殺風景な焼成煉瓦のベージュ色の壁伝いに延々と歩くと、角を曲がった途端に、溢れるような装飾と色彩の豊饒に圧倒される。

空港から直行した宿で、違和感があった。選んだ宿は、近代的なホテルではなく、メドレセ(イスラーム神学校)の建物を改装した歴史的建造物だった。歴史的空間を、経験してみたいと思ったのである。

イスラーム神学校を改装したホテル。

建物入り口の表札を見て驚いた。1905年。建造年は日本で言えば明治時代、日露戦争の頃ではないか(ちょうど、伊東忠太がオスマン帝国を旅行していた同時代でもある)。

「中世の街並みがそのまま残っている」、「都市そのものが博物館」。
ヒヴァの旅行ガイドを見ると、必ず書いてある。たしかにこの建物は、中世のような佇まいだ。だが、建設年は20世紀初頭。現代の旅行者向けに古いものに似せて建てられたものでもない。

わたしが違和感をもったのは、建物の様式だった。

1905年といえば、世界的に変化の時代だ。しかしこの建物には、「近代」への変化を思わせるような要素が、微塵もない。

この時代に新築された建物が、伝統様式? 明治の文明開化の時代に、純和風で仏教学校を作るような感じだろうか。

この中世そのもののような街は、近代化の流れにどう対応していたのだろう。まさか、時代の流れのなかで、この街だけが無傷でいられたわけではあるまい。そんな疑問が生まれた。

実際に街を歩くと、おかしなことに気づいた。

歴史的な街のはずである。たしかに10世紀建造のモスクなどはある。だが、どこもピカピカしている。世界遺産として修復しすぎの感は否めないが、それだけではない。建物の建設年を見て歩くと、大半が19世紀、もしくは宿と同じ、20世紀初頭の建造なのだ。ではこの中世のような様式の建物は、このタイルは、いわゆる「近代化」の時代の産物なのか。

突然自分が、ディズニーランドのような、架空の虚構の中で作られた空間にいるような錯覚を覚えた。

ヒヴァの街は、「中世の街並み」ではなく、じつは「近代都市」なのでは?
そんな突拍子もない考えが、頭をよぎった。

ウズベキスタンの西部、ホラズム地方のヒヴァは、かつてのイスラーム王朝、ヒヴァ・ハーン国の首都である。現在のウズベキスタン西部、カザフスタン南西部、トゥルクメニスタンの大部分がその範図だ。ハーンとは、系統的にモンゴルのチンギス・ハーンの子孫という意味である。

16世紀初頭に建国されたヒヴァ・ハーン国は、1873年にロシア帝国に占領され、保護統治領となる。 すでにそれまでに、南東部のブハラ、サマルカンドも同様の運命を辿っていた。革命以前の話である。

博物館で、その保護領のハーン、ムハンマド・ラヒム・ハーン二世(1847頃-1910)がロシアを訪れた時の写真を見た。西洋式の軍服を着たロシア人と、伝統的なカフタン、毛皮の帽子をかぶったハーン、その随行員。その服装や佇まいの対照が、印象深い。一行は、1894年、のちにロマノフ朝最後の皇帝となるニコライ二世(位1894-1917)の即位式に出席した。写真は、そのときに撮られたものだ。

1894年、最後のツァーとなったロシア皇帝ニコライ二世の即位式に出席するため、ムハンマド・ラークム・ハーン二世がロシアを訪れた際に、ロシア側の係官とともに撮影された写真。ムハンマド・ラークム・ハーン二世は、前列右から三番め。ニコライ二世は、皇太子時代に日本を旅行し、暗殺未遂の起こった大津事件の当事者である。

当時のヒヴァ・ハーン国の人にとって、「近代」の体現とは、「西洋」とは、ロシアのことだったらしい。意外な感じがするかもしれないが、それはオスマン帝国にとっても同様だった。西洋でない国の「近代化」は、どう実現できるか。ロシア帝国は、<非西洋>の国の近代化の、ひとつのモデルだった。(*1)

(*1)中東や東南アジア、中央アジアの国々にとって、じつはモデルはもうひとつあった。それは日本なのだが、その話は、またいずれ。

弱冠26歳で大宰相に抜擢されたヒヴァ・ハーン国の若きリーダー、イスラーム・ホジャ(1872−1913)は、ムハンマド・ラヒムの息子、イスファンディヤール・ハーン(位1910−1918)に随行してロシアへ行った。

イスラーム・ホジャ(1872-1913、大宰相1889-1913)。ホジャの急速な改革は保守派の反発を招き、暗殺された。

そこで西洋文化と出会い、憧れる。陶器づくりや絨毯、絹織物などの生産を奨励し、病院を設立し、「新方式」の学校を作った。ヒヴァで最も高いミナーレ(光塔)は、イスラーム・ホジャの寄進による建設である。

色とりどりの陶器。イスラーム・ホジャが奨励した製陶は、現在もヒヴァ近郊数カ所で続いており、町の重要な産業のひとつである。
イスラーム・ホジャが寄進したイスラーム・ホジャ神学校付随のミナーレ(光塔)。1910年建造。44.6メートルの塔は、ヒヴァ・ハーン国領内で最も高い建物となったが、敵国だったブハラのランドマーク、カリヤン・ミナーレよりほんの少し低い。

イスラーム・ホジャが仕えたムハンマド・ラヒム二世は、息子イスファンディヤールのために、ヒヴァ城外に、ロシアともヒヴァとも西洋ともつかぬ、そしてそのすべてを含んだ宮殿、ヌールッラーベイ宮殿を造らせた。

ヒヴァの「ディチャン・カラ(城外)」にあるヌールッラーベイ宮殿入り口。19世紀半ばの建造ながら、伝統様式である。
ヌールッラーベイ宮殿は、広い敷地内に迷路の様に九つの大小の建物が点在する。これは謁見の間と呼ばれるメインの建物の一つで、入り口軒イーヴァーンを支える木の柱、焼成煉瓦とタイルの使用など一見伝統様式だが、タイルはペテルスブルグ製、内部は西洋式。縦長の広い窓も西洋式である。
ヌールッラーベイ宮殿室内。伝統様式の外部に反し、内部の空間配置や装飾は西洋式。大広間に隣接する八角形のこの部屋は、イギリスのマナーハウスの「喫煙室」を踏襲し、19世紀にヨーロッパで流行したムーア様式(北アフリカのイスラーム様式)が引用されている。宮殿には、ロシア式アール・ヌーヴォ風の部屋もある。

その様式の混在、装飾の過多、圧倒的なイマジネーション、そして伝統への尽きせぬ愛着は、西洋の規範の趣味の良し悪しなどという価値判断を、軽々と超えている。 夏は灼熱、冬になると氷に閉ざされる砂漠の国の、未知のものへの希求の激しさに、はっと打たれる思いがする。

現在のヒヴァの街の中心部、 イーチャン・カラ(城内)は、端から端まで歩いて15分くらいのこぢんまりしたところだ。ウズベキスタンで最初に世界遺産となった場所だそうだ。1917年にロシアで革命が起こると、1920年にはヒヴァにそれが波及した。ヒヴァ・ハーン国はここに終焉する。ヒヴァは、ホラズム社会主義人民共和国として、ソヴィエト連邦の一部となり、のちにウズベク・ソヴィエト社会主義共和国に組み込まれることになる。

ヒヴァの城壁を外から眺める。凍てつくような寒さの日。

1920年当時、ヒヴァには、94のモスク、63のマドラサ(イスラーム神学校)があったという。

ヒヴァのひとたちが夢見た近代とは、なんだったのだろうか。20世紀初頭に建設され、今では建物だけが残るマドラサの数々を見ると、そんな思いが浮かぶ。イスラームの教えと、現代科学の共存。それはもしかしたら、あったかもしれない、近代の、別の形だったのだろうか。

ソヴィエト式に塗り替えられ、過去の記憶は消され、今では辿りようもない。歴史に「もし」はない。だが、ほんのひととき、そんなことを思うのである。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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