人に恵まれ、俳優人生が始まった(俳優・近藤正臣)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画
旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画「わたしの20代」。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺いました。(ひととき2021年6月号より)
京都で育ち、高校時代は演劇部でした。かわいい女子部員に頭数が足らないと声をかけられて……青春ですねえ。卒業後、有名料理屋に丁稚奉公に行ったんですが、理不尽なことが多くて、3カ月で辞めました。次のあてはない。そこで喫茶店にたむろする人たちに声をかけて、アングラ劇団を作りました。安保闘争の当時、ぶらぶらしている人がいっぱいいたんですよ。でも、小さな劇場を借りる3000円が集まらない。そんな中で、映画のエキストラのアルバイトがあると聞いて、初めて撮影所の中に入りました。
僕が今村昌平監督の「人類学入門」で映画デビューしたのは23歳のときです。監督は現場主義で、廃業した理髪店やどぶ川でゲリラ撮影ばかり。全員合宿体制で、毎晩、小沢昭一さんが持ってきた映画の上映会です。僕の母役の坂本スミ子さんはじめ出演者も監督もバリバリ元気で、すごく面白かった。いい経験になりました。
俳優でやっていけるようになったきっかけは、テレビドラマ「柔道一直線」です。僕は結婚して娘もいましたから、主人公(桜木健一)のライバル高校生役と聞いて、びっくりしたんですよ。キザな二枚目なんて自分とはかけ離れていますが、中学時代、銭湯でもらった招待券でたくさん見たフランス映画を思い出して演じました。僕が足でピアノを弾く場面は、ありがたいことに今も皆さんが語ってくれます。すぐにスポ根ドラマの主役の話がきたのですが、僕は、違う形で仕事をしたかった。すくい上げてくれたのは木下惠介監督のテレビドラマでした。当初、僕はお嬢さんをだます男で3話だけ出る予定でしたが、だますはずがだんだん本気になる流れになり、出演場面が増えていきました。監督のおかげです。メロドラマも多くやりましたが、正直言うと、二枚目は常に二枚目でいなければいけないので、つまんないんですよ。後年、たぬきの扮装でコマーシャル*に出て驚かれたけど、内心ホッとしていました(笑)。
*1991〜95年にかけて放映された大日本除虫菊「キンチョウリキッド」のCMシリーズで、たぬきの着ぐるみ姿の近藤さんが「60日、60日、いっぽんぽーん」と歌う
人は生きていくうえで、武器を拾って身に付けていく。画期的なドラマや映画が次々と製作された時代、目に留めてくれた監督との出会いという運に恵まれた。僕にとってはこれが一番大きいですね。
談=近藤正臣 構成=ペリー荻野
「柔道一直線」に出演し、一躍お茶の間の人気者に
近藤正臣(こんどう・まさおみ)
俳優。1942年、京都市生まれ。66年に今村昌平監督の「人類学入門」でデビュー。69年「柔道一直線」出演後、NHK大河ドラマ「国盗り物語」の明智光秀役など、数々のドラマ、映画出演を果たす。仕事で訪れた岐阜県郡上八幡に魅せられ、2017年に本格移住。俳優業の合間に釣りを楽しむ日々を送る。
出典:ひととき2021年6月号