金子みすゞのさみしさを想う。──西山厚『語りだす奈良 1300年のたからもの』
今からおよそ100年前、512篇の詩を残し、26歳の金子みすゞさんは、みずから命を絶った。私が一番衝撃を受けた詩は「積つた雪」だった。
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしてゐて。
下の雪
重かろな。
何百人ものせてゐて。
中の雪
さみしかろな。
空も地面もみえないで。
雪の気持ちを想像する。そういう人はほとんどいないと思うが、広い世の中にまったくいないこともないだろう。
しかし、「中の雪」のさみしさにまで、こんなふうに思いをはせる人は、絶対にいないと断言したい。
自分で言うのはなんだが、私も感受性がとても強くて、ほかの人が感じないことを、子どもの頃から感じていた。しかし、「中の雪」のさみしさにまでは、さすがに思いは至らない。
金子みすゞさんの詩は、そしてその人生は、さみしい。
みすゞさんが3歳の時、お父さんが中国で亡くなった。だからみすゞさんはお父さんを知らない。
きょうもきのうも、去年も一昨年もみんな夢。ひょいと目が覚めて二つの赤ちゃんだったらどんなにうれしかろ。という意味の詩がある。二つならお父さんがいる。
私の母も3歳で父親を亡くしたので父親の記憶がない。95歳で亡くなるまで、母はずっと父親を思い続けていた。
叔母のフジ(お母さんの妹)のご主人である上山松蔵は、下関で上山文栄堂という大きな書店を経営していた。
お父さんが亡くなり、金子家は大きく変わる。みすゞさんの弟(正祐)は、子どもがいなかった上山家へ養子に入り、フジが亡くなると、お母さんのミチが後妻になった。
やがて大津高等女学校を卒業したみすゞさんは、仙崎の実家から下関へ移って上山家に住み、上山文栄堂の支店で働き始めた。
当時、書店は時代の最先端だった。本や雑誌には、東京から発信された魅力的な新しい情報が満載されていた。
大正時代は『赤い鳥』『金の船』『童話』などの雑誌が次々に創刊された児童文学の盛期で、西條八十にひかれたみすゞさんは詩を作り始める。そして西條八十が編集する『童話』を中心に、詩を投稿するようになった。
この時期、つまり大正12~13年(1923~4)、20~21歳が、みすゞさんにとって一番幸せな時期だった。
大正15年(1926)2月、みすゞさんは上山文栄堂の店員と結婚。この結婚は最悪の結果を生む。それは初めから予想できた。
まもなく女性問題が発覚した夫は上山文栄堂を退職。生活を立て直せない状況のなか、みすゞさんは詩を書くことを禁じられ、夫が遊郭でもらった病気をうつされた。
子どものつぶやきを書き留めるだけの日々にも終止符を打ち、512篇の自作の詩を手書きした詩集を、敬愛する西條八十先生と実の弟の正祐に送り、みすゞさんはひとりさみしく命を絶った。
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑ふの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
大津高等女学校を卒業した時、奈良女子高等師範(現在の奈良女子大学)へ行って教師にならないかと勧められたが、みすゞさんは断った。
もしもそのとき奈良へ行っていたら、まったく違う人生になっていただろう。
奈良に来て教師になり、そのまま奈良に住んでいたら、私が奈良国立博物館に入った時には79歳の元気なおばあちゃん! きっと仲よくなったと思う。
(2023年7月5日)
文=西山厚
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