逗子、海を見ていた前方後円墳とヤマトタケルが駆けた路|新MiUra風土記
鎌倉駅をでた横須賀線の車内は一変して乗客がまばらになり、気分が緩んだ。
逗子駅に近づくと左手に片っ曽の山が迎えてくれて、僕のウェルカムゲートになっている。片っ曽の名は断崖の意味で、切り立つこの山には「孫三郎狐」が棲んでいた伝説がある。
駅のホームに下り立つと変わらぬ清々しい浜風が吹いている。駅前の日差しは白くて晴天の蒼さが似つかわしい。
小説「太陽の季節」(石原慎太郎)や「不如帰」(徳冨蘆花)が描いた三浦半島西岸の逗子市は明治から昭和へ、葉山町とともに保養地・別荘別宅地としてのイメージを作り上げた。
その市と町の境界線でぐうぜん発見されたのが2基の前方後円墳。県内最大級の長柄桜山古墳群で記紀神話にあるヤマトタケルの東征路上だという(*1)。古東海道の川岸からその墳丘へきらめく海原を眺めに登ってみよう。
海遊びの人々は銀座通に向かい、葉山や横須賀へはバスを選ぶ。めざす古墳には駅から史蹟のある田越川をたどろう。
市役所に寄りそう杜は亀岡八幡宮だ。鶴と亀、隣町鎌倉の鶴岡八幡宮を想うが、地形が亀の甲羅似だったことによる、と縁起にはある。参拝すると、本殿の扁額の書はあの東郷平八郎(*2)によるものだった。
京急逗子・葉山駅の線路を越えると田越川だ。逗子はかつて三浦郡田越村。三浦半島の南北稜線の麓から出でる清流には錦鯉やカルガモが泳ぎ、サギが舞っている。
川岸の脇には「三浦胤義遺孤碑」がポツリと残る。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で訪ねる人もいるのだろう。承久の乱で朝廷軍につき敗死した三浦一族の将。鎌倉方の兄三浦義村により遺子らが処されたとの説だ。
海に向かって桜並木を進むと白く細い橋が架かっている。ふだんは通行禁止で脇には「徳富蘇峰の碑」が立つ(*3)。
この一画は蘇峰が「魚楽園」と名づけた別宅だった。現在も曾孫の徳富直子さんが「zushi art gallery(逗子アートギャラリー)」を開いておられる。逗子ゆかりの写真家・森山大道さんの展覧会も企画されてきた。さきの白い橋は徳富家のプライベート橋だったのだ。
葉山へのバス通りを渡ると、ケヤキの巨木に覆われた「六代御前之墓」に寄った。御前の名だが男性で、平家さいごの嫡流で平高清がここで処刑されたとの伝。三浦半島のあちこちには鎌倉史の血涙の痕を残しているのだ。
田越川の河口に朱色の富士見橋。(表紙写真)この橋は何度も架け替えられていて古くは田越橋の名だった(現在の田越橋は上流にある)。
逗子の地名は諸説あるが辻子説によると、辻は路が交差する要衝。古東海道や浦賀道は西国と東国(房総半島)を結ぶ古道がこの橋を通っていたという(*4)。
富士見橋から左岸の住宅地に入ると一帯は「蘆花記念公園」になり、戦前の湘南の残り香がする。スパニッシュ風味の和洋折衷数寄屋造の「旧脇村邸」
(*5)をのぞく。
蘆花と国木田独歩が住いにしていた旅館柳家の跡地には記念碑が立つ。蘆花の明治期ベストセラー悲恋小説「不如帰」の舞台はここ逗子海岸で、この旅館での出来事が執筆のきっかけだった。
さて山上の古墳に向かおう。蘆花公園内の坂道はきついが、季節ごとの樹木や草花、苔のグラデーションが楽しめる。ちょうど中腹に門扉を開いているのが旧「郷土資料館」(*6)。木造平屋寄棟造の庭のベンチでひと息ついて、昔開館していた頃の眺めのよい展示室を思い出す。地元古墳の発掘品もあったはずだ。
長柄桜山古墳群(*7)への山道はいくつもあるが、僕がこのルートを選ぶのは登山道の一段一段の差が大きくて、心臓負荷テストをするかのようにフィジカルを試すことができるからで、身体と知的好奇心を刺激するいいトレイル路になっている。
ここは低山ながらいつの季節でも汗をかく。こんなとき頂上から聞こえてくるのが子どもらの歓声。西側の2号墳に着いて呼吸を整えていると、疲れ知らずの保育園児らが土まんじゅうの墳丘の上を駆け回っていた。
長柄桜山古墳群は、長柄は葉山町、桜山は逗子市の域になり、2基の前方後円墳はその境界線上の桜山丘陵で発見された(*8)。地元の考古学愛好家が遊歩中に埴輪の破片を見つけたことに始まる。
2号墳(全長88メートル)の前方部に立つと眼下には相模湾や江ノ島。富士山や伊豆半島が望める。それは大和政権を望郷させる方角だろう。吹き上げてくる風がたまらなくいい。2号墳の段丘は埴輪に囲われて、葺石という拳大の石で飾られていて築造時は陽光で白く反射していたという。それは西からの支配者の威光に見えたろうか。山の頂に盛り土された2号墳をあとにして東へ500メートルの1号墳をめざして尾根道を進む。
三浦半島らしいやぶ笹の道はアップダウンもわずかで、森林浴歩きが愉しめる。樹々をとおして垣間見える西の海は、逗子湾から葉山の森戸海岸のそれに変わった。やがて東に海峡が眺められる。千葉の房総半島と東京湾だ。1号墳と2号墳は三浦半島の東と西を睥睨する場所に造られたことを実感できる。
1号墳(全長91.3メートル)は現在大規模な遺構保存工事が続けられて立ち入れないが、こんもりした墳丘に佇むだけで、いまの湘南ビーチから鎌倉時代の逗子葉山を超えて、古代神話の三浦半島にスリップできるのだ。
1号墳からは東京湾側の「葉桜住宅地」に下ると県道24号横須賀逗子線。さきの富士見橋(旧田越橋)から横須賀の田浦、走水、観音崎へつながる道。江戸の浦賀道や古東海道でヤマトタケルの東征伝説がこのルートだったといわれてきたのだ(*9)。わずかな時間の濃密な古代へのトレイルだった。
文・写真=中川道夫
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