なぜ紅葉の美しさに心打たれるのか|笹岡隆甫 花の道しるべ from 京都
清川あさみさんの原画展で装花、“女性の成長”を秋色で表現
写真に刺繍を施す手法を用いた作品で知られるアーティストの清川あさみさん*が、百人一首をテーマに刊行した書籍『千年後の百人一首』。詩人の最果タヒさんが一首一首を現代語訳して執筆した新作詩と、清川さんが布と糸とビーズで描いた情景が掲載され、千年前の和歌を現代のものとして鮮やかに蘇らせた。
2018年11月には、建仁寺両足院で清川あさみ「千年後の百人一首」原画展が開催され、私は関係者特別内覧会の装花を担当した。紅葉の季節を迎える京都。紡ぎの糸をひと刺し、ひと刺し、重ねて生まれた美しい絵札たちに、千年の昔から変わらぬ秋の色彩を重ねたいと考えた。
清川さんと相談しながら、女性の成長になぞらえた4つの作品に合わせて、作品の構成を練る。まずは「幼少期」。とりどりの色彩を内に秘めたドウダンツツジの紅葉とアジサイに、これから何色にでも染まる幼少期の可能性を暗示させた。
続いて「思春期」。ぐんぐんと水を吸い上げる蘭、フラグミペディウムに思春期のみずみずしさを。ひねくれたバラは、思春期の不安定さを象徴。さらに「創造」。パームボートにチランジア、トウガラシを合わせて吊り、浮遊感を演出した。
最後に「怨念」。苔むしたクスノキの老木から湧き出る怨念を、桐のつぼみ、アンスリューム、サルトリイバラの実、クリプタンサスで表現した。毒々しさを表現してほしいとの、清川さんの要望に、何度も試作を繰り返して作品の構成を練った。最も苦労した作品だが、この作品が実は最も評判が良かった。華道家は、しっかり水あげされた生き生きとした花を好み、水が下がったように見える朽ちた風情は避けがちだ。しかし、闇があるものや、朽ちたものが人の心をつかみ、美を感じさせるということを教えてもらった。
清川さんは“想い”の人だ。涼しげな外見やふるまいからは、想像できないような熱い情熱を内に秘めている。旧来の日本文化を、現代の視点から再編集し提案できる、稀有な人材だと思う。今、日本文化に必要なのは、彼女のような存在だろう。
紅葉の美しさに秘められているもの
期間中に、いけばなパフォーマンスを披露する機会も得た。空間演出は名和晃平さん。上に透明なアクリル板を敷いた「白い毛氈」がこの日の舞台だ。主役はとりどりの紅葉たち。アジサイ、ボタン、ハウチワカエデ、カンギクと、少し皮肉な色の照り葉を取り合わせた。サルトリイバラの実とケイトウ、キクも加えると、ひときわ色鮮やかに。紅葉、実ものそして秋草が織りなす豊かな彩りはこの季節ならでは。
日本の紅葉の美しさは秀逸だ。一枚の葉の中にさえ、緑、黄、橙、紅……といったグラデーションが見られる。古来、誰もがその艶やかさに魅了され、その多様な色彩に秘められた命の移ろいを慈しんできた。様々な人間によって構成される我々の社会は、紅葉に似ている。異なる音が和音を構成するように、年齢や嗜好の異なる人間同士が寄り添い、互いに支えあって成り立っている。
いけばな教室はさながら、その縮図だ。幼い頃より祖父の稽古場に出入りしていた私を、流派の高弟の先生方は、子や孫のようにかわいがってくれ、折にふれ、いろんな話を聞かせてくれた。シベリア抑留中、同朋がパンを奪い合う過酷な現実の中で、ただ黙々と花をいけていた友の姿に感銘を受け、帰国後いけばなの道を志した先生。役目を終えた花材を処分するときは、半紙に包んで酒で供養し涙を流す先生。それぞれの先生の花への想いから、私は花との向き合い方を教わった。かつては、3世代、4世代が同じ屋根の下で暮らし、孫のしつけは忙しい親に代わって祖父母が担っていた。祖父母は、両親とはまた異なる価値観を示し、孫に人生の指針を与えてくれる貴重な存在だ。両親の言うことには反抗したくなるが、祖父母やその世代の教授者の話は、どこか懐かしく、なぜか素直に聞けた。広い世代の話を聞くことで、視野が広がり、人間としての厚みが増す。それは、自分の中に、移ろいを秘めるということなのかもしれない。
文・写真=笹岡隆甫
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