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富岡、ビーチリゾートと『午後の曳航』の眺め|新MiUra風土記
この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第18回は、三浦半島の北端、富岡を歩きます。
どこから三浦半島で? どこまでが三浦半島か? この連載をやっていてときどきこう自問することがある。
~三浦半島とは、藤沢市片瀬海岸から横浜市南部の円海山の北麓を結び、東京湾側の富岡を結んだ線以南をいいます~と明言してくれた本がある。(*1)
さらに縄文海進期の神奈川地図には藤沢、平塚、茅ヶ崎市の平野部や川崎市の手前の横浜市鶴見区までが三浦半島の付根に見えていて、僕の脳内MiUra半島はここまで入れているが。
(*1)『とっておきの三浦半島』(かながわ学術研究交流財団
編 神奈川県横須賀三浦地域県政総合センター 2007)
京急富岡駅、さきの本によれば半島北限はこのあたりか。いまは横浜市の金沢区で昭和23年(1948)までは磯子区だった。
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普通列車しか停まらない駅前には、同社のスーパーと飲食店がぽつぼつ並び人の気配がうすくて時間だけはたっぷり漂う、ここは街遊歩にふさわしい。
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旧道の坂を上ると旧川合玉堂別邸の茅葺の門が開いている。老ボランティアらが丁寧に説明をしてくれて邸内を進む。ただ残念にも、アトリエを兼ねた主屋は火事で失われて、邸名「二松庵」の松の木は戦禍で消えるが起伏と遊び心のある庭で画家の姿を思い描いた。(*2)
(*2)大正6年(1917)日本画壇の巨匠川合玉堂[1873-1957]が富岡に避暑避寒の別邸を構える。庭は富岡の庭師二代目植周により横浜市指定名勝。毎月第1土曜日公開。
富岡は日本の海浜別荘の発祥の地だ。玉堂が惹かれたように風光明媚なこの海岸には幕末の横浜居留地からヘボン博士(*3)をかわきりに公家の総理大臣三条実美[1837-1891]や井上馨[1836-1915]ら元勲、松方正義ら実業家[1835-1924]と作家文人らの隠れ家的保養地になっていた。(*4)
(*3)J.C.ヘボン(1815-1911)米国人医療伝道宣教師。幕末横浜で医療活動をしつつ聖書邦訳やヘボン式ローマ字を普及させる。
(*4)『もうひとつの横浜 金沢八景史』(林原 泉著 神奈川新聞社 2021)
玉堂邸の庭を回遊していると、鳥のさえずりをかき消すような金属音が鳴りわたる。さきの駅に近いせいか電車の軋みが断続し静けさは一瞬台なしになるが。昭和7年(1932)画家は逃れるようにして当地を離れ、戦時中の疎開を経て晩年は奥多摩(現青梅市)で過ごした。
鉄道がない頃の三浦半島。富岡の海浜に利便な足は横浜からの船便だった。官鉄横須賀線開設後、昭和5年(1930)湘南電気鉄道(現京急電鉄)が横浜の黄金町から浦賀、金沢八景から湘南逗子が開通。(*5) 乗合バスも整備されて三浦半島の東岸は庶民の海水浴・行楽客で賑わい、やがて海浜保養地は大磯、鵠沼、鎌倉、逗子葉山の相模湾岸へと移ってゆく。
(*5)『京急沿線の近現代史』(小堀 聡著 クロスカルチャー出版 2018)
富岡の海水浴場をめざそう。蛇行する旧道をたどると悟心寺、宝珠院、持明院などの寺社町で鹿島源左衛門邸の門に遭遇。富岡の有力な地主で篤農家だ。
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国道16号線を渡るとあたりは富岡八幡宮の森になり、一瞬武蔵野の郊外に来たかと思う。海岸線だった富岡八幡公園に「海水浴発祥 宮の前海岸跡」の記念碑が立っている。日本で初めて「潮湯治」をした外国人の海浜が富岡だというわけか。
富岡八幡宮、本殿への坂道の鳥居の脇に「料亭金波樓跡」の石柱を見つけた。八幡宮の足下はリゾートビーチ化していたのだ。
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源頼朝が西国の蛭子尊を鎮守と勧請して建久2年(1191)創建。のちに八幡宮となる。そこは出来たばかりの鎌倉幕府の鬼門封じの方位の丘上だった。その延長線上に江戸があり日光に行き当たるだろう。
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参拝を終えて昔の海岸線だった散歩道を周ると「並木のふなだまり」にでた。江戸東京湾からの繋船処で周囲の埋立てで激かわりするも、その記憶を干潟にして残されている。水鳥が群れ休む背後の八幡宮のスダジイの社叢林(横浜市指定天然記念物)が神秘的な姿を見せていた。
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この海岸線を北上すると慶珊寺で門前には「直木三十五住宅跡」と「孫文先生上陸之地」記念碑(岸信介揮毫)が。ヘボン旅寓の表札もあるという真言宗のこの寺。何かと時代と接触する場だったのだろう。孫文には富岡の浜はときには横浜潜入の裏桟橋だったかもしれない。(*6)
(*6)孫文(1866-1925)初代中華民国臨時大統領。辛亥革命の失敗で日本に何度も亡命し横浜中華街に身を寄せた。
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海岸線だった緑地帯をたどると長昌寺に着く。本尊は釈迦如来だが芋観音と「直木三十五」の文字が目に入る。(*7) 芋観音は疱瘡除けで信仰を集めてきた。奥まった墓域に「故直木三十五之墓」が座して新鮮な花が添えられていた。直木賞の願掛けの聖地になっているのか。隣には放浪波乱な人生だった作家で晩期に同賞を得た胡桃沢耕司氏の墓が並んでいた。
(*7)直木三十五(1891-1934)作家・脚本家 没後菊池寛により直木賞が創設。晩年富岡に終の住処を建てるが10日後に逝去した。
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長昌寺は富岡海岸線の北端にあり、そこはいま富岡総合公園と呼ぶ丘陵になっている。原生林のような木立を抜けると展望台にでた。東京湾に向かって金沢地先埋立地は幕末開港から明治、戦後へと横浜沿岸の風光を変貌させたが、戦前からのIHI系や日本飛行機など航空造船の防衛産業関連会社は健在だ。
かつての海岸に沿って高架の交通システム「金沢シーサイドライン」が走っていて、その向こうに横浜中央卸売市場の南部市場や三井アウトレットパークが賑わっている。
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この公園の崖下は、追浜の横須賀海軍航空隊(*8)から拡張した横浜海軍航空隊で飛行艇用の滑走台が渚へ敷かれていた。ガダルカナル島攻防戦の前哨戦で全滅した部隊。いまもこの公園内には門や浜空神社、掩体壕跡が残っていてこの季節には当時植えられた桜並木が戦争の記憶に花を手向けている。
(*8)本連載第10回参照
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三条実美の別邸があったというこの公園。横浜を舞台にした三島由紀夫の名作『午後の曳航』の終幕がこの山頂だ。「恐るべき子供」が住む中区山手から磯子区杉田をへてこの富岡の道筋の描写は正確だった。路面市電の廃止以外は彼の取材時(昭和37年[1962])と同じことに驚かされる。そこは進駐米軍から返還された場所で三島はさきの横浜海軍航空隊の痕も見たことだろう。
小説はこの富岡の丘での少年らによる未来の父親殺しという衝撃のラストシーンだ。処刑の前に薬物を口にした外国航路士官はその輝かしい航跡の記憶のなかでつぶやく、「栄光の味は苦い」と。三島は幕末から敗戦後への日本をこの富岡の風景のなかで予見させたのかもしれない。
文・写真=中川道夫
中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。
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