「俳句と一緒にいたいと 一途に恋していた20代でした」神野紗希(俳人)|わたしの20代
俳句との出合いは愛媛・松山の高校時代。放送部の活動で取材した「俳句甲子園」でした。高校生の句は、進路や恋愛に悩んでいたりして、「この気持ちは分かる!」と思ったのです。当時は蜜柑山から海を眺められる町に祖父母や両親、弟と暮らし、高校までは自転車で片道40分。風を感じながら、俳句を考える。蝶も気にしなければただの蝶ですが、春はモンシロチョウで夏はアゲハと違いがある。言葉にするって、見えなかったものを可視化することなんですね。
そういう毎日だったので、上京後の大学生活にはなかなかなじめませんでした。電車移動になって世界と触れ合う速度が変わり、自然との距離感も全然違う。俳句は続けていましたが、ひとりの生活への戸惑いや寂しさもあり、チューニングするのに時間がかかりました。
転機は20歳の時です。偶然、銀座の小料理屋「卯波」が“万年アルバイト募集中”と知り、履歴書を持って行ったら「これから2時間くらい働いてくれない?」と、即採用。そこは俳人の鈴木真砂女が開いたお店で、彼女の数々の名句が生まれた場所です。真砂女亡き後はお孫さんが板前兼店主をされていました。
もう一つの転機は、NHK松山放送局制作の番組「俳句王国」の司会を担当したこと。四国出身で俳句ができる大学生を探していた局の方に、俳句甲子園で「カンバスの余白八月十五日」という句で最優秀賞を頂いた私を審査員だった先生が覚えていて、推薦してくださったのです。番組を通して、多くの俳人の考え方に直接触れることができました。
「卯波」では10年くらい働き、「俳句王国」は26歳まで続けました。就職するべきか考えたこともありましたが、自分は俳句が好きだし、やれるところまでやろう、ダメだったら……まあなんとかなるだろう。とにかく俳句に使う時間を確保するというのが、第一の選択でした。
コンビニのおでんが好きで星きれい
この句を詠んだのは、アルバイト時代です。「俳句王国」で「おでん」というお題が出て、多くの方は屋台とか家庭のだんらんとかが思い浮かんだと思います。でも、お店を閉めて深夜ひとり帰る私がコンビニに立ち寄ると、そこにはいろんな人がいて、おでんの湯気が上がっている。都会にも都会の星や風や夜があり、これが今の私のおでん。自分の現在地を認めてあげたい。自分を肯定することで、一歩また明日が近づいてくれそう。そんな気持ちでした。
私は、SNSが普及して俳句の世界が変わったターニングポイントの世代でもあります。先輩たちは俳句結社*に入り、賞を取って世に出ていくという方が多かったのですが、SNSは自分で世に発信することができる。私も、20代の終わりに仲間2人と俳句のウェブマガジンを作りました。コストをかけず、垣根を越えて読んでもらえる場ができたのは有意義だったと思います。
思えば俳句との出合いも、「卯波」や「俳句王国」も、つかみに行くというよりは自然に向こうからやってきた感覚です。その流れの中で、悩みがあっても、それはそれ。俳句になる。これは詠むところだと思える。そんな選択をした自分は、できるだけ俳句と一緒にいたい。一途に俳句に恋していた20代でした。
談話構成=ペリー荻野
▼神野さんの最新句集『すみれそよぐ』朔出版
出典:ひととき2024年7月号
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