イスタンブルの水不足|魅惑のオスマン美術史入門(3)|イスタンブル便り
怯んだのも一瞬、わたしはここぞとばかりに訴えた。
日本で手に入る文献には限りがある。母校の図書館や専門図書館の東洋文庫、中近東文化センター、さらには専門家の先生がたから個人的に本を借りたりもしている。それでも足りない。
それに、オスマン帝国の建築文化というものを、現地に行って深く理解したい。必死だった。
その時、審査室全体の雰囲気が変わったのを覚えている。数人の審査員の先生が、深く頷いてくれたのだ。
そして数週間後、わたしは合格の通知を手にしたのである。
* * *
めでたく奨学金を得て、イスタンブル工科大学へ留学が決まった。
だが、懸案事項があった。
留学は、その年の秋、10月の初めから始まることになっていた。だが、9月半ばに重要な学会がある。国際トルコ美術史学会、四年に一度開かれる大きな学会で、 世界中から専門家が集まる。いわば、トルコ美術史界の、オリンピックのようなものだ。毎回世界の違う都市で開かれ、その年の開催地は、ジュネーブだった。
そんな大層な学会に、博士課程の駆け出し学生ごときの分際で、ひとりで出席できるわけはない。日本の恩師、ヤマンラール水野美奈子先生から、出席して発表を聴くだけでも勉強になるから、とお誘いいただいたのだった。
ぜひ行きたい。
文部省(当時)と掛け合ったが、いや、9月からでは旅費は出せません、しかも、行き先がイスタンブルでなくジュネーブならなおさら、の一点張り。結局、旅費は自分で出します、ということにして、どうにか学会に間に合った。
それにしても運が良かった。
ヌルハン・アタソイ、オクタイ・アスラナパ、ドアン・クバン、メティン・アント、メティン・ソゼン、ギュンセル・レンダ、ギョヌル・オネイ、モリス・チェラーシ……。 オスマン美術史・建築史の歴史を作ってきた綺羅星のごとき碩学たちが、ずらりと揃っていた。現ハーバード大学教授のギュルル・ネジプオウルは、まだ若手、という雰囲気だった。(横で、「僕もいた、博士課程終わったばっかりだった! でも、君は僕のことなんて知らなかったよね」と、パオロ騎士)
「あなたはミナコの学生なのね、じゃあ、わたしの孫弟子ね」
オスマン美術史の大家、ヌルハン先生から温かな笑顔でそう言われ、感激していると、美奈子先生は言った。
「一度挨拶しておくと、みなさん今後も覚えておいてくださるものなのよ」
そしてそれは実際、とても大きな贈り物となった。
のちにトプカプ宮殿博物館長となった故フィリズ・チャーマン氏は、当時同宮殿の図書館司書だったが、紹介された時に「訪ねてきなさい」と言われたのを頼りに、学会が終わった後にイスタンブルで、訪ねた。
宮殿時代のモスクの建物が、現在の図書館である。一般の見学者はお断りのエリアにある目立たない木の扉を押すと、そこは薄暗い閲覧室だった。時が止まったようなその部屋で、フィリズ・ハヌムは大喜びで、顔を見るなり「ハレムは見た?」と尋ねられた。いえ、今回の訪問ではまだ、と答えると、すぐに電話をして、当時は決まった時間にしか見られなかったハレムのセクションを、特別に自由に見せていただく便宜を得た。
この学会で学んだことはもうひとつある。
日本でそれを意識したことはなかったが、ヨーロッパで美術史に関わる人々の層の厚みである。学会には、大学や博物館関係者だけでなく、ギャラリーやディーラー、コレクター、自分の家に代々のコレクションが伝わるような人もくる。美術史だけなのかは知らないが、学会はある種の社交の場で、 王宮や歴史的建造物での華やかなレセプションや、ふだん非公開の場に専門家だけを集めた特別観覧がセットとなる。美術史家の財産とは、どれだけの優れた作品を見たか、その経験の積み重ねである。長く生きれば生きるほどその蓄積は増えるので、今思うが、年をとるのが楽しい職業の一つだと思う。
「ご専門は?」
「わたしは、アラビア文字の書道を少し」
学会の閉会式で、たまたま隣り合わせになった紳士と話して知った。自宅にあるコレクションを研究し、オックスフォードだかケンブリッジだか忘れたが、博士課程を終わらせた後、乞われて大学に残り教えたりもしたが、自分の研究に没頭したくて辞し、「自宅の小さな隅に」書斎を設け引きこもって、食事なども運んできてもらって、研究をしている、という話を聞いた。
まるで、19世紀のディレッタントのようである。のちに知ったのだが、ヨーロッパではイスラーム美術のコレクションや研究は、貴族的な趣味という伝統が、根強くある。そんな雰囲気が、今から30年近く前、まだ色濃く存在していた。
* * *
学会後イスタンブルに落ち着き、大学へ行くと、アフィーフェ先生が待っていた。他の先生がたや大学院の学生たちにわたしを紹介してくれた。そして、にこやかにこういったのである。
「ミユキと英語を話すのは、禁止ね」
トルコ語よりも楽に話せる英語を使っていたのでは、いつまでたってもトルコ語を習得できない。その時から、試練が始まった。何をするにもトルコ語。そこで、あることに気づいた。専門の本ばかり読んでいたわたしは、大学院の授業はある程度は理解できた。しかし「お盆」だとか、「フォーク」だとか、日常生活に必要な単語を、ほとんど知らなかったのである。
それにしても今考えると、わたしの拙いトルコ語に親身に付き合ってくれたクラスメイトや友人たちの辛抱も、並大抵ではない。ありがたい話である。クラスメイトたちは、授業の宿題、レポートのトルコ語を、毎回丁寧に添削してくれ、数かぎりないわたしの質問に答えて、教えてくれた。留学直後は、いわゆる外国人向けのトルコ語講座にも通ったが、トルコ語の本当の実力は、書くことで身についたように思う。
* * *
留学して最初の学期、最初にとった大学院の講座「初期オスマン建築」(担当教授はアフィーフェ先生だった)の学期末レポート課題は、「15世紀以前のオスマン建築作例を一つ選び、それについての研究をする」というものだった。
オスマン帝国がアナトリアで建国されたのが1299年。15世紀以前といえば、最初の首都ブルサ、コンスタンチノープル征服を見込んでバルカン半島側に構えた二番目の首都エディルネ建設、そして1453年のイスタンブル征服前後に当たる。
秋に始まるトルコの新学期。陽光美しい秋のあと、イスタンブルの冬が、こんなにも寒く、暗く、苦しいものだとは、誰も教えてくれなかった。抜けるようなトルコブルーの美しい季節と、ビショビショと降り止まない冷たい風雨の暗さのギャップが、激しすぎるのである。
今ではずいぶん改善されて、ほんとうに昔話の感があるが、イスタンブルの水不足・断水は、慢性的だった。雨が足りない、というよりも、インフラの問題である。例年になく大雪が続いたその冬は、特に断水が多かったそうだが、初めてだからそんなことはわからない。
国費留学生として日本政府から潤沢な奨学金を与えられ、学生には分不相応なアパートメントに暮らす恵まれた留学生活である。だが、断水にはほとほと困った。水が出る時間帯が決まっていて、その時間に、洗濯や掃除や入浴や調理を急いで済ませ、必要な水をあらゆる容器に貯めておくのである。それだけならまだいいが、突然予告なく水が止まることもしばしばだった。もちろん、いつから出る、ということも、知らされない。
あるとき、一週間くらい水が出なかったことがあった。もちろん、ストックはしてあるのだが、それも底をついた。何が困るといって、一番はトイレの水、そして、好きなように体を洗えないことである。そういう生活が続くと、自分が汚くなったような、惨めな気分になる。
そんなある日、アパートメントの建物から外に出ようとして、一階に住むハルドゥン・ベイと行きあった。サッカーチーム、フェネルバフチェの往年のスター選手で、トルコ共和国初代大統領アタチュルクとの写真もあるハルドゥン・ベイは、オスマン帝国時代生まれ、当時で80歳過ぎだったが、典型的なイスタンブル紳士。よく昔のイスタンブルの話を聞かせてくれた。奥様のネルミン・ハヌムは、大宰相ムスタファ・レシット・パシャの曾孫に当たる。アパートの建物の世話役だった。
「水はある?」と聞かれ、「いいえ」と答えると、ハルドゥン・ベイは言った。
「うちは一階だから、今朝、ほんの少しだけ、出ているよ。バケツをもってきなさい」
嬉しかった。だが反面、素直に言葉にしたがうのが、憚られた。
「ただでさえ、水が足りないのだから、お家で使うぶんだけでも、足りないでしょう。わたしにまで分けていたら、お家のぶんが、なくなるのでは?」
ハルドゥン・ベイは、きかなかった。
「バケツをもってきなさい」
細い、糸のような分量の水を、長い時間をかけて貯めてくれた。お礼を言って、水道代を払おうとすると、ハルドゥン・ベイはきっぱり断り、こう言った。
「困った時は、みんなお互いに助け合うものですよ」
グッと、涙が出た。
困難に際して、さらりと人を助けることができる、トルコの人の懐の深さは、こういう何気ないときに発揮される。今回の大地震の際にも、色々な場面で見聞した。もしかしたら、不便な生活は、人を強く、優しくするのかもしれない。水不足生活はもうこりごりだが、たまにそんなことを思う。
* * *
その週末、オスマン帝国の古都、ブルサに行くことにしたのは、15世紀以前の初期オスマン建築の宿題、というよりも、温かいお風呂に、思う存分入りたかったからだった。ブルサは温泉の町なのである。
ブルサに行く、というと、ある人から勧められた。
「イェシル・ジャーミ(”緑のモスク”)に行ったら、イマーム(イスラーム導師)にお願いして、二階の、スルタン礼拝席を見せてもらいなさい」
イェシル・ジャーミはブルサの名所で、モスクだが、オスマン帝国初期に、政治的な会見の場所としても使用されていた。1419年竣工、オスマン帝国とティームール帝国の間の戦争で捕虜として、タブリーズ(今日のイラン)から連れてこられた職人たちが作ったとされる、緑のタイルが有名である。
観光客でごった返す今では想像もできないことだが、当時、イェシル・ジャーミをわざわざ見にくる外国人はあまりいなかった。ブルサも、ひっそりと長閑な古都だった。ましてや冬の寒い時期、人はほぼいない。拙いトルコ語でイマームにお願いすると、意外にも簡単に、一般には非公開のスルタンの礼拝席にあげてもらった。
そこで、わたしは見てしまったのである。
夜空に輝く星々の規則正しい運行、その摂理を投影したかのような、幾何学に裏打ちされた文様の宇宙。スルタン・メフメット一世が、そのもっとも奥深い空間で見ていた美の世界。
そして、その名「イェシル(緑)」を彷彿とさせる緑のタイルである。緑といっても、黒に近いような深い緑に浮き出す、鮮やかなトルコブルー、黄色、白の文様。深緑の表面に施された金彩。何か、秘密を覗いているような、隠微な、それでいて途方もなさを思わせる、豊穣、享楽の痕跡。一見素朴に見えるなかの、高度な美学と洗練。その渋さはどこか、日本の雅に通じる部分もある。渋さのなかの、煌びやかさ。変幻自在の自然体。その美の世界に、一瞬で心を持っていかれた。
こんな世界があったとは。このモスクは15世紀、ちょうどいい。軽い気持ちでこれを宿題のテーマにすることにして、イスタンブルへ帰ったわたしは、調べ始めた。
そして、奇妙なことを知った。
ベアトリス・サン=ローランという、フランス人のような名前の人物が書いた論文。ブルサのイェシル・ジャーミは、19世紀半ばに大地震で壊れ、それを修復したのは、フランス人なのだそうだ。ブルサの街はその時に、アフメット・ベフィク・パシャという県知事によって、パリをモデルに近代都市に改造された。云々。
ブルサのイェシル・ジャーミといえば、時代は違うが、日本でたとえるなら法隆寺と同じくらいの重みがある。オスマン建築の原点と言える、国の宝である。それほど重要な建築の修復に、フランス人が関与していた? それは一体、どういうことなのか。しかも不思議なことに、ブルサの地震、修復の時期と、ドルマバフチェ宮殿の竣工は、ほぼ同時代である。
わたしの出発点、ドルマバフチェ宮殿がなぜ西洋式で作られたのか、という疑問と、同時代に初期オスマン建築の最重要作品を修復したフランス人。なぜこれほどまでに、「西洋」が出てくるのだろう。何か関係があるのだろうか?
そのような興味に惹かれ、調べ始めるとどんどん面白くなっていった。イェシル・ジャーミを修復したフランス人の名前は、レオン・パルヴィッレ。パリの人である。パリのノートルダム寺院の重要性を唱え、復興させたフランス建築史のカリスマ、ヴィオレ・ル=デュクの弟子、らしい。1867年、パリ万国博覧会に、オスマン帝国スルタン、アブデュルアジーズが来訪した際に、オスマン帝国パヴィリオンを設計した人物である。
万博? パヴィリオン? スルタンがパリに行った? 15世紀オスマン建築のことを調べていたはずなのに、なぜ話がパリに飛ぶのだ?
しかし、課題には締め切りがある。調査も記述もまるで十分でないけれども、提出しなければならない。わたしはアフィーフェ先生に言った。
「先生、課題だから、提出はします。でも、全然納得いかないので、これ、続けてやりたいです」
先生は何も言わずに、ほんのひととき微笑んだ。そして言った。
「おやりなさい」
結論から言えば、その最初の宿題は、最終的にわたしの博士論文となった。舞台はパリへ、それからボストンへ。ベアトリスの正体、パオロ騎士の登場、そして博士論文をトルコ語で書くという、酔狂な話は……。
(続く)
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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