「役割のない自分」に戻る時間
久しぶりにひとりで自由に過ごす時間をもった。
いや、正確に言えば、ひとりの時間は毎日あるのだけれど、そういう時は「ひとりで皿洗いをしている」とか「ひとりで洗濯を干している」とか、主に主婦業をこなしていることが多く、『自由なひとり時間』と言える時間ではない。
我が家の家事は、ほぼ私が担っている。夫は、料理はたまにやってくれるのだが、ゴミ出しや掃除、洗濯などの家事は一切やらない。ふたりともフルタイムで働いているが、私のほうが職場が近いし、家事が得意(細かいとも言う)なので、暗黙の了解で私がやることになっている。
(夫のことを悪く書くつもりはなかったけれど、そういうニュアンスになってしまったかも。旦那さんごめんね。ごはん作ってくれてありがとう。)
子どもがいない上に両親と同居もしていないので、何とか(ある意味、気楽に)主婦としてのルーティンワークをこなせている。しかし、主婦業は本当に多岐にわたるよな、と思う。
朝から晩まで、やることは尽きない。手抜きしないと「自分がやりたいことをやる時間」が取れないので、やることの順序付けをすることと、多少手を抜くことを必然的に覚えた。
それでも、晩春から秋にかけての農繁期は、仕事の休みがほとんどなくなるため、時間を作ろうとしても作れなくなる。毎日、ネットを見る時間は細切れで確保しているが、夫が同じ部屋にいるので「ひとり」ではない。
我が家は、同じ部屋にいながら別々のことをする系の夫婦(なんじゃそれ)なので、部屋はたくさんあるのだけれど、暖房代のこともあり、大抵ふたりセットで過ごしている。
仕事の休みは、夏はほぼ合わない。合わないというか、私の休みがない。冬の間は、休みが重なれば一緒に買い物に行ったりもするけれど、ふたりで家にいることも多い。
だから、私が『自分ひとりの自由時間』をもてるとしたら、12月から3月までの冬季間、私の裁量で休みが取りやすい時期だけに限られてしまうのだ。
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夫婦というのは不思議なもので、別に一緒に行動する必要がないときも「セット」に見られる。ひとりでいても、夫の存在や妻の存在を周囲の人間から思い出させられるというか。
旦那さんが待ってるから早く帰ってあげなよ、とか、あんまり出歩いてると奥さん怒るよ(だから早く帰れ)、とか。まぁ、すべての人がそうではないと思うし、かつ、そういう自由のなさも含めて婚姻という契約を結んでいるとも言える、のかな。
だからなのか、結婚してからは『自分ひとりの自由時間』はかなり少なくなった。それでも、最近は慣れてしまって、「ふたりでいてもひとり」ができるから、さして不満もないんだけれど。
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私は仕事はアウトドアだが、趣味や性質的にはインドアで、休みは家にいたいほう。アクティブに動いて疲れが取れるタイプではなく、誰とも会わず、ひたすら自分の世界にこもって充電するタイプだ。
けれど昨日は、たまたま近隣市町村に行く用事があったので、そこで意図せず『自由なひとり時間』をもつことになった。
自車の車検があったので、そのついでにヘアカットの予約もあらかじめ入れておいたのだが、カットが終わってから車検が終わるまで、何時間か「なんの目的もない時間」ができた。
お昼すぎだったので、近くのカフェでツナのホットサンドとロイヤルミルクティーを注文し、冷えた体を温めた。その後、本屋さんに行ってぷらぷら立ち読みしたり、新刊の棚を流し見したり。文房具のコーナーで、甥っ子のお年玉用にと、かわいい和紙のぽち袋を買ったりもした。
自分の住んでいる町には本屋がなく、近隣市町村の書店までは40km弱、離れている。本屋さんをゆっくり見て回るなんて、実に2年ぶりくらいかもしれない。移住してくる前、関東にいた頃は、こんなふうに休みの日にひとりで出かけることもあったのに、所変われば、休みの日の過ごし方も随分変わるものだと感じた。
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髪を切っている間も、カフェでお茶しているときも、本屋さんで立ち読みしている時間も、私は「主婦の私」でも「職場での私」でもなく、ただの「わたし」だった。「役割のないわたし」で自由に過ごしてみて初めて、普段の私がたくさんの重くて大きな『役割』を背負っていたことを知った。
人は、生きているといろいろな役割を与えられ、それを背負って生きている。知らないうちに背負っていた役割もあるだろうし、自分で背負いたくて背負っている役割もあるだろう。
でも、たまにはその役割を脇において、『役割のない自分』になってみませんか。それが、本来の自分に戻る、ということだと思うから。
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