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【短編】サーカス

「君の思いどおりにはいかないよ」その人はおどけた目をしている。
「はっはっは、ロケット花火みたいな癇癪かんしゃくだ」
 暴れかかったわたしの拳は大きな両手にたやすく受けとめられた。歯を食いしばって身体をよじっても、その人はびくともしない。
「それで、どう。楽しかったかい?」
 楽しくないわけがなかった。一年に一度、陽がとりわけ高くなる季節にやってくる移動遊園地の、ぴかぴか光る白馬たち。そのたてがみにしがみつくと風はキャラメルの匂いに変わったのだ。
「うん、でも」
 やりたいことをやりたいだけやらせてもらったあとの、にやけた冷やかしが我慢ならなかった。みずから選んだとっておきの余所よそゆきを、似合う似合うと褒めそやされた恥ずかしさ。今日初めて会うその人は、なれなれしくわたしを「桃」と呼び、メリーゴーランドの乗車券を握らせた。白金の喜びに手を染めて夢を満喫し、出口の通路に戻ってきたとき、つけこまれたような後味の悪さが胸の奥からにじんだ。
 甘ったるい視線が途端にざらりと挑発的に感じられて、わたしの頬を瞬時に燃やした。押さえつける力が緩んだのを狙って分厚いてのひらをふりほどくと、勢いあまった左腕がその人の広い額をはじいた。それでもその人は笑っていた。
「だめだよ、そう気が短くては。君はものわかりが良いと聞いていたんだけれど」
「どうしてわたしのことを知っているの?」
 聞きたいことがたくさんあった。
「今日はいらない質問をしない約束だ」
 おじさんの人差指がわたしのくちびるを封じた。
「だれとの約束?」
「だれだろう。」
「もしかしてママ?」
「さあ、質問はやめだ。まるごとわかってしまうと、楽しみは薄れてしまう だけだから。いいね?」
 噛んで含めるようにわたしをうなずかせると、その人は水色の大きなざらめ飴をひとつ取り出した。
「ほら」
 こんなことで丸めこまれるのは不本意だけど、口の中で溶ける飴玉は懐かしい味がする。

 にせ物の魔術師に違いない。それならわたしは、にせ手品ショーのモデルなんだろう。細身の棺桶に入って脇腹をかすめる刃にも涼しい表情だ。手品のモデルはたいてい銀色の光る鱗のドレスをまとい、かかとの高い靴を履いて壇に上がった。わたしの黄色いワンピースは黄緑の向日葵柄だ。こんな晴れがましい衣裳で恐ろしい人体切断ショーのモデルがつとまるわけがないのにね。
「おじさん、なにが可笑しいの?」
 その人の目の脇には、まぶしそうな笑い皺が折りたたまれて動かない。移動遊園地とサーカス、もちろんわたしは嬉しくてうずうずするけれど、大人もこんなにお祭りを喜ぶものなのか。わたしは口の中の飴玉を右のほっぺたに転がした。

『どれほど望んだことだろう。たとえば生い茂る夏草の中に息をひそめて、君の髪の伸びるのを見ているとか。たとえば玄関先の無口な柱になって、君の出掛けのあいさつに耳を澄ませるとか―』

  広場は人の暑くるしいさがたまらない。わたしと同じくらいの年の子供は大人と手をつなぎ、もうすこし大きい子たちは友達同士で駆けてゆく。わたしたちは縁日を見て回った。射的の薄暗いテントには大小の景品が吊り下げられて、空気銃をかまえた子供たちが思い思いのものに照準を定めた。わたしは目線が発射台の足元にも届かないものだから、背伸びをして羨ましくのぞきこむだけ。コルク玉にはじかれて、指人形が落ちる。ビーズの宝石箱が落ちる。
「欲しいのあるか?」
 わたしの熱心な目線をとらえて、その人が訊く。わたしは激しくかぶりを振った。いつの間にかそのひともアスファルトに膝立ちをして、わたしの目線に並んでいる。
 地面には乗り物チケットの半券、たべおわった綿あめの棒、水風船のしなびた残骸。投げ棄てられた楽しみの、色あせた切れ端が散らばっているだけ。
「桃くらい小さいと、何にも見えないよなあ」
 そうぼやくと、その人はわたしの手を取って弾みをつけた。
「つかまって。いくよ」
 身体がふわりと浮きあがり、気づけばテントの白い屋根に手が届きそうだ。
「よく見えるだろ?」
 その人の肩の上はゆらりと不安定で、一歩踏み出すたび、わたしは笑いころげそうにだった。猫柳のような乗りごこち。木馬よりもスリルのある、風変わりな騎乗が楽しかった。口の中の飴玉が、しゅわしゅわと気体を発して小さくなっていく。
「桃、あれが見えるか?」
 まぶしい目を上げて、ふり仰ぐ。赤と黄色の天幕をなびかせて、サーカス小屋が悠々とそびえていた。テントのとがった屋根の上には三角形の旗がなびいていた。食べ物を焼くにおいが濃くただよった。
「人の頭の上が見えるね。帽子のてっぺん、つむじのてっぺん……」
「ああ」
 わたしはおじさんよりも高い目線にいる。
 
『君はいつか今日のことを思い出すだろうか。
 高いところを流れる風の涼しさや、ひらめく万国旗の色あい、飴玉が舌の上を転がる感触、それだけでもいい。』

  いったん灯が落ちた会場の静けさを破って赤光が目をくらませた。あとは燃え上がる歓声。火のついた輪をくぐる熊。フラフープを回しながら一輪車を乗りこなす踊り子。芸当を披露する子猿。目まぐるしくステージ上を行き来するスポットライトの光の的。せわしない視線は光るものを追ってぱちぱちと焦点を切り替えた。赤と緑と黄色とをねじり合わせたストライプの衣裳。踊り子たちのひっつめたお団子髪、白手袋から放たれる銀色の紙吹雪。銀色の紙吹雪―

 光の輪の中に手品師も現れた。正真正銘の本物は杖の先から国旗の列を取りだし、それを腕の一振りで花束に変えた。やっぱり本物は違うなあと言うつもりで、おじさんを小突く。その人は、いまだに思わせぶりなことを言うだけで、実際の魔法はひとつも見せてくれない。魔術なんてまやかしだったんだ。でも心の半分くらいはホッとしていた。いきなりステージに呼ばれて、刃物の手品を披露することになったらと、はらはらしていたから。

「やっぱりおじさんは、にせ物なのね」
「にせ物かい?」
「そうよ、にせ物の魔術師」
 その人はさも可笑しそうに声を上げて笑った。
「おじさん、腕つかれた?」
 耳元に口を寄せてたずねると、その人は答えるかわりに体をぶんぶん振ってみせた。落とされないようにとつかまりながら、歓声を上げるわたし。向日葵柄のすそが軽く風になびく。

 その途端、しずまっていたステージから太鼓の音が鳴り響いて、歓喜が塊となって渦巻いた。台座に現れたライオンが雄々しい咆哮を上げた。嵐の呼び声、朗々と響く座長のアナウンス。人々の突き上げるような熱風に巻き上げられ、何もかもが聴きとれなくなった―。

『涙飴 なめおわるまでの夕凪は 思い出が
 ながし目の走馬灯に似て 
 きらきらしく流れてゆくばかり…。』
 
「君が大切なんだ」
 つぶやいた声は歓声にかき消された。ライオンの傍らで、おどけた顔の熊が調教師にうながされ、くるりと前回りをしてみせた。天に逆巻くボンファイアーの熱に照らされて、高まった桃の息遣いが聞こえる。私はその温かな重さを肩の上に感じながら、ひとときの愛着を噛みしめていた。
「君が大切なんだ、とてつもなく」
 肩にしがみつく小さな両手に力が入る。なにも心配することはないのだ。桃の目は輝くものを追っている。


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