
【エッセイ風】連想ゲームを三つ飛ばしたところにあなたの人格がある
どうしてか不連続なものに惹かれる。
たぶん、意思を感じるからだ。もしくは、どうしようもない引力。
いままで通り、惰性にまかせて同じようなルーティーンを繰り返していけばいいものを、とつじょ確固たる意志や引力によって突き動かされて、予想もつかない、不連続なジャンプを遂げることへの、畏敬に近い感情。
ジャンプといったのは、量子のジャンプを連想するから。
自然のものに、不連続なものはあまりないと思う。
流れを断ち切ること、それはすなわち不自然なことかもしれない。
流れに組み込まれることへの拒否反応なのかもしれないとも思う。
時代の潮流、まわりの空気、予定調和、よくあるパターン。
なじみたいと願いながらも、根本的には徹底の反発を腹にかかえている。
「過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想」と小林秀雄は書いた(「無常ということ」)。
時間はつながっていないかもしれない。
初めて読んだ高校生の時、そう気がついて腑に落ちた。
格式高い名文と名高い批評を、十分にとらえきれているかはわからないけれど、「思い出す」というのは、のっぺりと続く時間の平行波にあらがって、不連続であろうとする試みじゃないかと思う。
論理でも同じこと。
文章を書くなかで、飛躍とか、脈絡のない展開や表現を、好んでつかいたくなる。
「あなたは連想ゲームを三つ飛ばすよね」
親しい人が言ったのは、的を射ていると思った。
学生時代、シュルレアリスムの文章にどっぷりはまった。それからマジック・リアリズム。文章構造や文法の骨格はたもちつつも、前後の脈略、論理的帰結、書き手の意思さえも拒絶する、突発的で無秩序な文章に、やみつきになった。
合理性を極限まで突き詰めた末に起こってしまった第一次世界大戦の、焼け野原に取り残された人々が、画一的な合理性からの脱却をこころみた運動だったのだと、本で読んで知った。
シュルレアリスムは、人間性や人格の境界線を試しているようだ。
アンドレ・ブルトンとその仲間たちは、ルイス・フロイスの心理学に感化されながら、夢診断や自動書記をつかったというけれど、夢うつつに自動書記機でつむぎだされた文章の、書き手は夢想者本人と言えるのか。その人の意思が介在したと果たして言えるのか。
きみにもやがてわかるだろう、私がもはや首を吊るための雨にもあたいしなくなるとき―森のはずれの、青い星がまだ自分の役目をはたしていない場所で、寒気がその両手をおしつけながら、私に忠実でいてくれるだろうすべての女たちに、だが私と知りあってもいない女たちに、こういいにくるときがくれば。「あれは草の肩章と黒い飾りカフスを付けたりっぱな船長であったし、おそらく命のために命を投げうつ技師でもあった。
話が飛躍するにしてもひとそれぞれの飛躍がある。
晴天の霹靂のような文構造にも、隠れた下地がある。書き手がその順番に言葉を連想をするほかないのだから。たとえば「首吊り」と「雨」、「草」と「肩章」のように。意図的な連関が隠されているといいたいのではなくて、どちらの言葉も書き手の語彙に存在して、なにかしらの理由でその順で出力されたという点が、書き手の人格なのではないかと思った。同じ言葉から始める連想ゲームが、メンバーによってまったく違った結末を迎えるように。
「ブラックホール情報保存パラドックス」について。
なんでも吸い込んでしまうブラックホールだけれど、吸い込んだものの情報が保存されるのか、消えてしまうのかについて以前物理学の論争があった。
いまでは吸い込んだものの情報が保存されていると理解されている。
ひとがそれぞれ吸収した情報を完全には忘れないのだとすると(思い出しにくくなることは多いと思うが)、ひとはそれぞれの情報の束の中から、言葉を発し、連想をおこない、時には論理を飛躍させる。
ひとりにひとつのブラックホール。ブラックホールこそが人格かもしれないと思う。
そして、ひとは見たことのあるものしか想像できない。
そう考えると、無機質に思えたシュルレアリスムの文章や、一見ふまじめな逸脱に思える「不連続」こそが、真の人間性、無二の個性の拓本かもしれないと思う。
比喩でもなんでもないけれど、光が波であり同時に粒子であるというのは、希望をあたえてくれるような気がする。
一点の唯一な光になりたいと願う。