【エッセイ風】AIによる人格復元ってあり?~モネ、ひばりにJosie(2)
こんにちは。前回の記事では、AIによるアーティストの作品・パフォーマンス復元に対する違和感について思ったことを書きました。表現者に限らず、人格をAIによって「復元」することの危うさもあると感じました。「あの人がいたら、どう判断するかなと思って」参考にする場面というのが、ぐらぐらした根拠の上に立つAI推定で、まことしやかに実現されてしまうということ。それにはやはり反発せずにはいられなかったのです。
しかし、ノーベル賞作家・カズオ・イシグロの「クララとお日さま」という作品を読んで、その感覚が少し変わったので第二回として書きたいと思います(内容に踏み込むことになるので、これから読むという人はここで引き返してください)。
まず、前段としてこの作品は2021年にカズオ・イシグロのノーベル章受章後第1作目として世界同時発売された一冊です。普通であれば原著が出版され、時間を措いて翻訳版が続くのですが、「クララとお日さま」についてはそれが同タイミングだった。だから、発売当時には日本も世界の他の国から時間差を経ずに話題が盛り上がりました。
この作品はジャンルとしてはSFとされ、今から数十年後の、AIロボットが子供の友達がわりとしてサポートする時代が描かれています。主人公のクララも、「人工の友達(AF=Artificial Friend)」として店頭に陳列され、ある女の子ジョジーの家に買われて行きます。この時代には、特に裕福な家庭で子供への遺伝子操作が行われていて、知能が上昇している代わりに、いろいろな歪みが出ているという設定でした。ジョジーも遺伝子医療を受け、その結果、重い病気をわずらっています。
太陽電池で動くクララは太陽をいのちの源としてとらえ、亡くなった人をよみがえらせる力まで持つ偉大な存在として絶対的に信頼しています。クララはお日さまに力を分けてもらえるよう様々な手段でジョジーの回復の手伝いをしようとします。その中でもジョジーの病態は悪化し、母親は彼女のすがたを留めるための「肖像画」を描くことに決めます。
肖像画、というのは言葉の綾で、つまりは死んでしまうジョジーの特徴を持ったAI人形を作成するということでした。ジョジーそのものとして生き続けるその役目を、母親はクララに担って欲しいと頼むのです。その場面が、こちら(日本語部分は拙訳)。
実はクララは前の場面で、自分の身体を犠牲にしてまでジョジーのために太陽の気を惹こうと動いていました。なにかクララのひたむきさ、まっすぐな言葉を読むとき、 教訓的なストーリーなら「わたしはジョジーではないから、代わりは務められない」と返事するのかと思いきや、彼女が身体とプログラム(頭?)を塗り替えてまでジョジーのいなくなった家族の喪失感を癒そうとしたことに、ちょっとした衝撃を受けました。
クララはもちろん機械なので、人間の思考や行動のパターンを完璧に認識しているわけではありません。家族を意図せず怒らせてしまったり、人間の示す複雑な反応に戸惑ったりすることもあります。そのクララが、どの程度理解して返事をしたのかは、想像するしかありませんが、彼女のジョジーに対するひたむきさを思うと、一概に「間違っている」と言えない気持ちも湧いてきます。
視点は変わりますが、この本を読んで 物語という、仮定にもとづいて展開する「物語」という場が、現実世界の問題に示唆を与えてくれることがあるのだと改めて実感しました。こちらの記事にも、「フィクションは、現実と向き合うための思考実験」と書きましたが、物語は時としてクララの例のように、「もしも」を想定して未来を見据えるため重要なヒントになるんじゃないかと思います。
AIの知能が人間を上回ると言われる「シンギュラリティ」という事態が起きると言われているのが数十年後。ノストラダムスの予言みたいに楽観視したいけれど、これは科学技術とのつき合い方の問題。まだ選択権は人間側にあると思う。
「クララとお日さま」は、去ってしまった人と、遺された人の両者の尊厳や意向を大切にしながら、AI復元に向き合っていくべきなのかなと思わせてくれた読書経験でした。みなさんはどう思われますか?(おわり)