幻と消えた2つの天皇御座所 ①マツシロとヤマト 大本営移転計画と経緯
【まえがき】
本日より数回にわたり紹介させていただくのは、太平洋戦争末期、日本の政府中枢機能移転の為に掘削された二か所の地下壕です。一つは長野県長野市松代一帯に構築された、所謂「松代大本営跡」。そして、もう一方は奈良県天理市豊田町に構築された、俗に「天理御座所」と呼ばれる地下壕です。今回は歴史的背景を考慮した結果「天理御座所」ではなく、この地下壕が現存する山の名前から、「豊田一本松山 御座所地下壕(仮)」と表記します。予めご了承くださいませ。
大本営・天皇陛下及び政府中枢の移転には、実は日本陸・海軍の両者にそれぞれの計画がありました。「松代大本営」には陸軍が、「豊田一本松山 御座所地下壕(仮)」には海軍が移転を計画していたようです。
今回は両者の地下壕構築への過程についてまとめていきます。
1.マツシロ ー陸軍の動きー
昭和19年はじめ、マーシャル諸島失陥・トラック島空襲など、中部太平洋での戦局が悪化、米軍による絶対国防圏内への攻撃の可能性が高まっていました。そんな中、陸軍中央で勤務していた井田正孝少佐が、来るべき本土空襲に対処するために、大本営移転の意見書を冨永恭次中将(当時陸軍次官)に提出します。この時の移転候補地としては、現東京都の八王子付近だったと言われています。
[井田正孝]
大正元年、岐阜県に生まれる。ノモンハン事件には観測将校として参加。終戦直前のクーデタ未遂事件、所謂「宮城事件」に首謀者の一人として関与。平成16年、91歳で死去。
同年5月、井田少佐は大本営の移転場所として信州(現 長野)周辺を極秘調査するようにとの密命を受けます(※陸軍はこの時点ではまだ本土での決戦を想定しておらず、あくまで空襲対策として移転を計画)。結果、松代盆地一帯が適地だということになり、陸軍首脳たちは大本営移転地を松代と決定します。
この際、松代が選定されたのにはいくつかの理由があったようで、手元の資料の記載を引用させていただきます。
〇なぜ大本営が松代に(関係者の証言を合わせると以下のようにまとめられます。)
①戦略的に東京から離れていて本州の最も幅の広い地帯、信州にあり大本営 の地下施設の近くに飛行場がある。
②地質的に硬い岩盤で抗弾力に富み、地下壕に適する。
③山に囲まれた盆地にあり、工事に都合のよい広さの平地があり、また地下施設を建設するだけの面積が確保できる。
④施工面から見ると、長野県はまだ比較的労働力が潤沢である。
⑤信州は人情が純朴で、天皇を移動させるにふさわしい風格、品位があり、「信州」は「神州」に通じる。防諜上からも適している。
(「松代大本営の保存を進める会」パンフレット”松代大本営”より引用)
同年7月、遂にサイパン島が陥落。日本本土への本格的空襲が現実のものとなりました。これに危機感を感じた陸軍首脳は、大本営に加え日本政府自体をそのまま松代へと移してしまおうという計画(※実際はごく一部の限られた関係者にしか知らされていなかった)を独自に進行。東条内閣総辞職後、陸軍大臣杉山元大将によって松代大本営の工事準備命令が出され、ここに秘匿名”松代倉庫工事” 通称「マ工事」が始動します。この辺りから天皇陛下の御動座計画の話が出始めていたようです。
[杉山元陸軍大臣]
明治13年、福岡で生まれる。陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)を務める。鈴木内閣組閣後、阿南惟幾に陸相を譲り、来るべく本土決戦に備え第一総軍司令官となるが、昭和20年9月 拳銃にて自決。享年66歳。
2.「マ工事」はじまる
「マ工事」開始命令は杉山元陸軍大臣により昭和19年10月に発令、翌月11月11日午前11時に初めて発破が行われました。この一見奇妙な数字配列は、11を縦書き漢字に変換すると「士」になるとの理由であえて選ばれた、とも言われています。初期は象山にイ号倉庫(政府機関用)、舞鶴山にロ号倉庫(大本営用)、皆神山にハ号倉庫(当初皇族用としていたが、地盤の弱さから食糧庫に転用)が構築されます。この工事にあたり、熱海で弾丸列車用トンネルを掘削中であった第一地下建設部隊(運輸通信省)約100名と西松組・鹿島組が起用されました。工事にかかわった人数は計60万人を超え、工費は最終的に6000万円(今では2億円程)かかったと言われています。
象山に残るイ号倉庫(政府機関用)内部の写真。通常公開されている。
昭和19年末から昭和20年にかけ、レイテ・硫黄島・そして沖縄を次々と失陥、いよいよ本土決戦が現実のものとなりました。昭和20年3月、遂に陸軍は天皇の御動座に備えて、仮皇居を松代に建設するよう命令を下します。加えて通信施設や印刷局、皇太子・皇太后用の地下壕建設を次々に命令、松代盆地一帯の山に大規模な地下施設が構築され始めます。
ここで、主な施設の配置及び終戦までに行われた工事概要と完成度について見ていきたいと思います。
松城盆地 大本営施設配置図
一枚目:大本営中央(舞鶴山付近を拡大) 二枚目:松代盆地全体(白抜きの部分が一枚目)
松代大本営 工事概要及び完成度
(「松代大本営の保存を進める会」パンフレット”松代大本営”を基に作成)
また、着工命令を時系列順にまとめていくと…
このようになります。必ずしもイロハ順ではないというところが奇妙なのですが、ここで言えることは、”松代大本営”構想は戦局の悪化に伴って拡大化していった、ということです。おそらく当初は、これほど多くの施設を作ろうとは計画していなかったのだろうと思います。
3.「マ工事」の終了と戦後の松代大本営
天皇陛下自身が本気で松代に移動するとお考えであったかは諸説があります。万一の場合は移動するといった趣旨の発言も記録されていますし、「私は行かないよ」と発言されたともいわれています。(内大臣木戸幸一が言上し、それに天皇陛下が反対したと言われていますが、同氏の日記 所謂「木戸日記」にはそのような記述がありません。)
そして昭和20年8月15日、総計十数キロにも及ぶ地下壕が掘削された「マ工事」は、全体の約75%が完成したのち終了、終戦を迎えます。戦後は焼け出された子供たちの為の施設として転用する計画があったりしたようです。どなたかが、「戦争を指導する人たちが隠れるために掘った穴が、今度は空襲で焼け出された子供たちの為に使われようとしている。皮肉なもんだ」と記述されたのを見ました。なるほどと頷くばかりです。天皇陛下が戦後長野に行幸された際、「この辺りに無用の穴を掘ったようだね」とおっしゃったとも言われています。大金を費やして「日本一無用の長物」を作り出したと、戦後は酷い言われようだったそうです。実際、仮皇居建設の為に近隣住民が立ち退きに応じたとの話も残っています。しかも使われず仕舞いだと来たもんですから、住民の怒りときたら.....。この頃はギリギリ「軍事特別措置法」は施行されていなかったので、強制立ち退きという形ではなかったのでしょうが…情勢上は土地をあきらめざるを得なかったんでしょうね…。
その後、気象庁や大学の観測所としても利用され(宇宙線観測所・地震観測所など)、今日に至ります。
ロ号倉庫入り口。現在は気象庁の地震観測所として使用されている。
放置され、朽ち果てるのを待つのではなく、このように一部は研究施設として使われているということは、せめてもの救いなのではないでしょうか。
4.ヤマト ー海軍の動きー
奈良県 豊田一本松山地下壕 前日の雨により壕口付近は水没していた。
時は戻り昭和18年ごろ、奈良の地でとある施設の設営が開始されます。世に「柳本飛行場」として知られる、大和海軍航空基地です。この基地のやや北東部、奈良県山辺郡丹波市町には予科練甲飛第13・14期生教育の為に新設された予科練教育航空隊、奈良海軍航空隊がありました(前身は三重海軍航空隊奈良分遣隊)。この部隊は、天理教の詰め所などを宿舎として利用、予科練生の教育や訓練を行っていました。天理市に行くと、天理教関連の大きな建物が先ず目に飛び込んできます。おそらく戦前から似たような施設が存在しており、その人員収容力はかなりのものであったのだろうと考えられます。予科練生の宿舎として転用するのは好都合で、これが当地に予科練教育航空隊がやってきた最大の理由だと考えられます。
同年11月、現天理市豊田町付近にあった”山名詰所”が接収、第14兵舎とされ、第47、48分隊が投宿します。この場所が後に御座所地下壕掘削の作業本部となるわけです。この後の時系列は不明ですが、この間に奈良海軍航空隊の格納壕が豊田一本松山に掘削されます。
その後、海軍省軍務局第1課は、陸軍の大本営松代移転計画の別案として、大和海軍航空基地に海軍総隊司令部・第三航空艦隊を移動させ、基地周辺に地下壕を建設、ここに大本営海軍部・天皇陛下を移動させようと考えます。一説では、米軍の上陸地点を九州・四国とみた海軍が、大和海軍航空基地を本土決戦の拠点とし、同基地から出撃する特攻隊員を陛下自身に見送らせ、士気を高めようとした狙いがあった、と言われています。
昭和20年5月 豊田一本松山に掘削されていた格納壕を転用し、天皇陛下を迎え入れるための拡張工事が遂に始まります。
豊田一本松山付近からのパノラマ写真(右奥が一本松山)。左奥の方面には、かつて大和海軍航空基地があった。
豊田一本松山の麓より、大和海軍航空基地を眺める。歴史にもしもはないが、天皇陛下はこの場所から、出撃する特攻隊員を見送られたのかもしれない。
5.御座所地下壕の実態
地下壕の拡張工事には、松代大本営地下壕と異なり民間人や勤労奉仕隊の手伝いは敬遠されたようです。これは機密保持の観点からとされており、工事には予科練生約2000人を動員、昼夜交代の作業で完成を急ぎます。この工事はほとんど完成し、7月末 天皇陛下の通り道になるということで、付近の民家に立ち退きを交渉するも、実行に移す前に終戦となってしまいます。
現在確認できている唯一の開口部。ギリギリ入れる大きさだ。
終戦時に残されていた内部構造を簡単に説明すると、当時は上下二層建てとなっており、総檜張り、10畳ほどの御座所(20畳とも)、御前会議室、電話設備、病院などが準備されていたといいます。その後の地下壕の存在は地域住民だけが知るところとなり、長年忘れ去られていたようです。2001年11月6日、奈良新聞に「幻の天皇御座所か」との記事が掲載され、再び脚光(?)を浴びることとなります。
6.海軍内の二つの案
ここまで書いてきて、奇妙に思ったことが一つ。どちらも大規模とは言い難いのですが、海軍は松代と奈良の両方に地下壕を建設しています。時系列順に見ていくと、
昭和20年5月、奈良豊田一本松山御座所地下壕の着工→ 同年6月 松代 大本営海軍部用地下壕の着工
となっています。これに関して書かれている2冊の本から、少しだけ引用させていただきます。
(ある海軍将官が高松宮に説明する) 陛下が松代に御動座されるようなことになっては大変でありますが、いまのこのような状況では、その可能性はないとは断言できません。もしも陛下が松代の地下壕に動座されるようなことになれば、陛下は戦争の継続を主張する陸軍の虜になってしまう恐れがあります。(中略)実は遅ればせながら海軍もまた、陛下の動座を研究し、建設にとりかかろうとしています。(中略)大和高原と奈良盆地との境になる春日断層崖であります。この春日断層は奈良市の春日山から三輪山の西麓まで南北につづきます。この崖の下に地下施設をつくる計画であります。(中略)御動座の問題は宮内大臣、そして内大臣が陛下にご助言して決まることであります。そこで殿下にお願いしたい。宮廷高官を招集いただいて、動座する場所は宮廷が決めるべきだ、陸軍に任せてはならないと殿下から説いていただきたい。(鳥居民 著 ”昭和二十年 6月9日~13日 第一部=11 本土決戦への特攻準備”より引用 )
この書では、陸軍の松代移転計画に反発するように地下壕を建設し、天皇陛下を大和へ迎えようとする海軍の姿がうかがえます。
(中略)大和基地付近には、すでに海軍設営隊が地下壕工事をはじめていたので、軍務局第一課当の関係者は、八月一日に日帰りで現地を視察した。しかし、規模が小さく、また、状況が変化したため、この案はついに沙汰やみとなったのである。(原剛 著 ”松代大本営の全容”より引用)
この書では、天皇陛下の大和行きは沙汰やみになったとされています。
この辺りに関しては資料が著しく欠乏している為、詳細については不明となり、明言は避けたいと思います。が、個人的には海軍にも派閥があって、このように計画が分裂してしまったのではないかと考えています。ホントのところはどうなんでしょうね。
【参考文献】
・鳥居民 著 ”昭和二十年 6月9日~13日 第一部=11 本土決戦への 特攻準備"
・原剛 著 ”松代大本営の全容”
・戦史叢書 本土決戦準備 (1)(2)
・土門周平ほか ”本土決戦”
【人物の画像 引用元】
画像をクリックすると引用元へジャンプできます。 wikipediaより引用
【あとがき】
長ったらしい文章になってしまい申し訳ありません。暇つぶしに読んでみてください。こんなのは大学受験には出ません( ´艸`)。経緯や経過などの話は大体終わったので、次回からは本題の遺構編に突入していきたいと思います。探索などのお役に立てれば幸いかな、と思います(*'▽')。 最後になりましたが、今回の探査の大きな手掛かりとなった情報を提供してくださった、盡忠報國様、Yさん、どうもありがとうございました。
ではまた次回($・・)/~~~
【SPECIALTHANKS】 ・ 盡忠報國 様←クリック 「奈良行宮(仮)」として、とても詳しく解説されています。リンクはこちらから。
・Yさん 当時を知る数少ない証言者の方です。突然の訪問でしたが、とても親切に対応してくださいました。
【重要 お願いとおことわり】
地下壕は非常に危険です。事故等について、当方は一切責任を負いません。外部からの観察のみを推奨しています。どうしてもという方は自己責任で。
戦跡を通じての出会いも大切に(*'▽') 。探索者はあくまで見学させてもらう身です。そのことだけは忘れずに、くれぐれもマナーには気を付けて、楽しい穴ライフを!!