青々光る
ずっとうっすらと心のどこかで、何かを創るという行為に憧れている。だから音楽や小説や映画やお笑いや、その他諸々、わたしの好きなものやそれを創る人は眩しい。自分もそうなれたらいいな、なれるんじゃないか、などと期待をしていたことが、ひとつ光る目印のようにたしかにあった。
反面、そういう感情にぴったりとくっついている、どうせわたしにはできないな、という気持ち。だって技量も才能もないし。こううだうだと言い訳をしている間にも、きっと本当に『創れる』人は、さっさと創り始めてしまうのだろう。
半分拗ねるような子供じみた態度で、わたしはものを創ることに憧れるのを、いつの間にかやめていた。自分も創る立場になりたい、という希望を見ないふりすることに慣れていた。
そんなことをぼんやりと思いながら、今現在絶賛人生の足止めを食らっているわたしに、突き抜けるような言葉が真正面からぶつかってきた。
今はまだ、もがいても、閃いても、模ってもいないけれど、わたしの喜びってやつは、もがいて閃いて模った先にあるんじゃないか?と、わたしの真ん中に突き刺さった。創ってみたい、と思った。創るためにならもがけるんじゃないかと、珍しく自分に期待を持てた。
わたしが果たして音楽を創りたいかは一旦脇において、音楽の話をひとつ。
軽音部でコピーバンドとしてライブに出ていた時、楽しそうに踊る客席を見るたびに心のどこかで虚しかったことを思い出す。好きなバンドの好きな曲を、自分の音で鳴らしているけど、でもそれはわたしの大好きな誰かが創った曲であって、今目の前にある楽しい風景は本質的にはわたしが生み出したものでは無い。無論、バンド、として演奏する以上、わたしだけのものになることはない。創作、という工程をすっ飛ばして、インスタントにライブを楽しむことはずっとぎこちないもので、なかなか慣れなかった。
こう思ったのも、どこかに創作意欲の欠片のようなものがあったからなんだと、都合のいい解釈かもしれないが、CYANを聴いた今は思う。奥底にあった憧れを思い起こさせてくれる、とても大切な曲だ。
わたしが何をどういう形で創るのかはもう少し考えるとして、創りたいという気持ちには素直に向き合ってみることにする。その先で一生眩しいわ、と思える喜びに出会えたら、CYANは今よりもずっとずっと大切な曲になるに違いない。
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